みずきりょう

<ライター「みずきりょう」のブログ> インド哲学・仏教関連の著作物、エクステリア(住まいの屋外空間)・ガーデン関係の著作物を随時連載していきます。 ご愛読いただければ幸いです。

「みずきりょう」の著作物(ブログ連載中 or 連載予定のもの)
*仏教・インド哲学関連・・・「Buddha-ism」「仏教タントリズム」
*エクステリア関連・・・「納得!エクステリア講座」「日本庭園と日本外構」
*娯楽・読み物・・・エッセー「スーダラ雑感」





「仏教タントリズム・資料編」



        みずきりょう著


         連載第177回


 

<第十三章> 
インドの歴史<
5001,200年頃>

 

 

 

56:北インドの動向


 

「ラージプート」と呼ばれた時代②

 

ただ、同時代で「プラティハーラ王朝」が最も優勢で、「ラージプート」時代を代表する王朝であった事は間違いのないところ。そして、同王朝がどのような推移を見せ、どのような特性を持っていたのかはある程度明らかです。まず建国者ですが「ナーガパタ1世」と言う人物で、「ラージプート」系の特色でもあるように<「クシャトリア」出身>だと称していました。在位は750780年頃とされ、「ヴァルナ王朝」滅亡後の混乱期に勢力を拡大し、同王朝の礎を築きました。

2代目の「ヴァッツァラージャ」(在位78080年頃)も拡大策を継承しますが、北東部の「パーラ王朝」と戦い続け一部領土を広げた・デカン高原にあった「ラーシュトラクータ王朝」には敗れた・・・と言った記録があり、スムースに版図を拡大することは出来なかったようです。

 その後も、3代目「ナーガパタ2世」(在位800833年頃)が「パーラ王朝」に勝利(ただし「パーラ王朝」は存続)し首都を「カナウジ」に移す。だが、「ラーシュトラクータ王朝」には敗れる。第5代「ボージャ1世」(在位836885年頃)は、北はヒマラヤ山麓にまで勢力を伸ばし(この頃が最盛期と推定される)インド北部の大部分を手にした・・・と言った記録が残っています。その後も、900年頃までは一進一退を繰り返していたようですが、結局は周辺国を完全に凌駕する事はありませんでした。

 さらに時代が進み、1,000年代になると急速に衰えを見せ、<14代「ラージャパーラ王」(在位9601,008年)時代の1,008年に「ガズナ王朝」の「マフムード」に攻撃を受け首都「カナウジ」陥落><1,036年には16代「ヤシャパーラ王」(在位1,0241,036年)時代に滅亡>となります。ただ、「ラーシュトラクータ王朝」もその後衰え、同国に変わり「ガーハダヴァーラ王朝」が北インドを支配するようになります。

「プラティハーラ王朝」を語るとき、絶対に見逃せないのが、A:「イスラム勢力」の本格的インド進出を300年近く遅らせた B:「ヒンドゥー教」重視の国家であった・・・と言う2点。つまりインド「仏教」及び「仏教タントリズム」に取っては、<「ヒンドゥー教」優位の政策で苦境に立たせた>が、その反面<「イスラム勢力」を抑え込むことで寿命を延ばした>と言う、相反する2つの面で大きな影響を及ぼした王朝であったという事です。



212:ボージャ1世

「プラティハーラ王朝」最盛期の王「ボージャ1世」(在位836885年頃)
画像:Wikipediaより




213:ガズナ朝のマフムード

13代「ラージャパーラ王」(在位9601,008年)時代に大打撃を与えた「ガズナ王朝」の「マフムード王」画 
画像:Wikipediaより






「日本庭園と日本外構」:NO281

「旧古河邸」にある2つの庭園?



 小川治兵衛の作品。この項では「旧古河邸」を取り上げます。ただし、
同建造物はジョサイア・コンドルとの共作、と言うよりも日本庭園部分だけを小川治兵衛が担当したのですが、どうも影が薄いように思われてなりません。ではその原因は・・・

 

「旧古河邸」は1917年(大正6年)に建てられた洋風建造物で、設計・全体の監修はジョサイア・コンドル18521920年。イギリスの建築家。日本人の妻を迎えるなど、日本文化に強く興味を持ち、同時に明治時代の建築に多大な影響を及ぼした。「旧古河邸」は最晩年の作品)が行いました。つまり、明治ではなく大正時代の作品。ただし、日本庭園部は小川治兵衛作品であるため、このコーナーに組み入れました。同物件の所在地は東京都豊島区西ヶ原で、現在は都立公園となり、バラ園などの人気も高く、多くのファンが訪れます。総面積は3万㎡強で、洋風建築物・洋風庭園・和風庭園等で構成されています。

 

「旧古河邸」の全体構成を見ると(案内図参照)、北部の高台にメインとなる洋館があり、その南面にバラ園等の洋風庭園、さらに池泉回遊式の日本庭園が広がっています。そして、前述のごとく日本庭園部分が小川治兵衛作品。なお、メインゲートは西門ですが、和風空間へは南側の裏門(染井門)から直接入ることが出来る設計になっています。

 

日本庭園部は、心字池を中心に渓谷・船着石・大滝・茶室(露地)・見晴台・枯滝・雪見灯籠などが取り囲み、これらを園路が結んでいます。全体的には、緑が深く落ち着いたたたずまいが特色。ただ、小川治兵衛は全体プランにはタッチせず、和の空間のみを担当した。そう感じられてなりません。また、それが当時の造園家の限界であったとも思われます。優れた日本庭園でありながら、冒頭に記した「影の薄さ」を感じさえるのも、そこに原因があるのではないでしょうか・・・

 

一口アドバイス。

「旧古河邸には優れた日本庭園。でも、主役はジョサイア・コンコルド!」

(みずき りょう) 



281:ジョサイア・コンドル

ジョサイア・コンコルド




281:案内図


旧古川邸案内図



281:旧古川邸

洋館



281:バラ園

バラ園



281:入口

裏門(染井口)



281:パノラマ

パノラマ



281:心字池

心字池



281:茶室と露地

茶室と露地



281:雪見灯籠

雪見灯籠







Buddha-ism

第2改訂版

 

 「仏教」について語ってみたいと思います。閉塞状況の現代社会に最も必要な思

 考体系だと思うからです。本書は、特定の宗教を広めようとする主旨によるもので

 はありません。ただ、仏教のすばらしさが、あまりにも誤解を持って伝えられ、本当

 の魅力とは程遠いイメージが定着してしまっているからです。

 これほど「mottainai」ことはありません。出来るだけ客観性に富んだ視点で、分か

 りやすく「仏教の考え方」を伝えたいと思います。ぜひ目を通して見て下さい。

 

みずき りょう


 

第六章 

インドの「浄土系」と「密教系」グループ

 


 

NO―19 謎多き「インド密教」の世界




 

「仏教タントリズム(密教)」と関係の深い経典&概要①

 

「タントリズム」「仏教タントリズム」のおおよその意味・流れについて、提示してきました。でも、「仏教タントリズム」と言う考え方とはどのようなもので、何を根拠にして確立されたのでしょうか。また、その根拠となった物にはどのような事が書かれていたのでしょうか。

これまでの動きを見ても分かる通り、「タントリズム」自体、呪術性だけではなく、快楽性の強い思考形態だと言う事が出来ます。当然、現世利益的要素も多く、たとえ厳しい現実下でも<一種のシビレのような世界に埋没(現実逃避)してしまう>と言った側面も持っています。つまり放置すれば、大衆迎合しやすく不穏な動き(グループ)が蔓延してしまう危険性が高いという事。そして、この点を参考に以下を・・・

 

実は、「仏教タントリズム」と言うより、中期に至る<「仏教タントリズム」の理論付け>の根拠となった2つの経典があります。「大日経」と「金剛頂経」です。詳細については後述しますが、この二大教典は、(あくまで筆者の私見ですが)他の大乗経典と少し成立の順番が違うように思われます。

他の大乗経典の場合は、経典が先に作られ(あるいは、ある傾向の考え方を纏め、長時間かけ集大成され)、その後に賛同者によるグループや・同系の考え方に対する注釈書などが成立します。しかし、「大日経」と「金剛頂経」は、「タントリズム」が流行し、不穏な動きも各所で見られるようになった。そして、仏教関係者の中で「これでいかん」と言う事に成り、流れを正当化するため論理的主柱となる経典を急いで纏めた。そんな風に思えてならないからです。

根拠としては、「大日経」「金剛頂経」の元?となり、その多くが「***タントラ」と呼ばれる短編書(経?)が、「仏教」にも「タントリズム」の影響が顕著になった頃(400600年頃。ただし、諸説あり)に登場。そして、「大日経」の成立は600650年頃、「金剛頂経」は同650700年頃とされており、長い時間をかけて集大成されたのではなく、<慌てて纏めた>感が非常に強いからです。

 しかも、この時代は「ヒンドゥー教」隆盛の影響で、「仏教」に危機感が強まってきた時でもありました。つまり、内外の変化により<「仏教タントリズム」のあるべき姿を早急に明確化する必要があった>訳で、恣意的に創出されたのが「大日経」「金剛頂経」であった。そのように思えてならないからです。

 両経典の概要については後述しますが、「大日経」と「胎蔵界曼荼羅」・「金剛頂経」と「金剛界曼荼羅」は切っても切れない関係にあります。しかも、筆者には両経典の記述によりそれぞれの曼荼羅が創られたのではなく、両曼荼羅が先行 or 同時進行で創られ短期間で理論付けされたと見ています。補足するなら、両曼荼羅と関係の深い<儀式の執り行い方>もこの時に纏められたと推定されます。



137:チャクラ

137:「チャクラ」が描かれた「ヨーガ」を行う「ヒンドゥー教徒」・・・「チャクラ」とは円・中心と言った意味の「サンスクリット語」。そこから派生し<重要部>を表す。
画像:Wikipediaより





138:転法輪印

138:「印(ムドラー)」・・・「印」とは何かに影響力を及ぼす重要な形の事。この形は「転法輪印」と呼ばれている。
画像:Wikipediaより





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