「日本庭園と日本」:NO152
「桂離宮」と言う芸術作品①!
江戸時代前期とはどのような時代か。同時代の作庭家と同作品にはどのようなものがあるか。以上の点について検証してきました。この項からは、引き続き江戸時代前期の代表的名園を取り上げます。まずは、「中沼左京」「玉淵坊日首」等の作庭と言われている「桂離宮」&同庭園から・・・
「離宮」とは皇居以外に設けられた宮殿のこと。「桂離宮」は、京都市西京区桂にある皇室関連施設で、後陽成天皇の異母弟である、八条宮智仁親王(1579〜1629年)と、彼の息子・智忠親王(1619〜1662年)により造られました。そして、ほぼ同時代に、後水尾上皇(1596〜1680年)により造られた「修学院離宮」(後項で紹介)と共に、絢爛豪華な安土・桃山文化(芸術)とは対極にある、平安時代の王朝文化に茶の湯等の新芸術を取り入れた、代表作品となっています。また、江戸前期を代表する芸術家たちも、その建造に参画したと言われています。
桂と言う地名は、中国の「月桂」の故事から取られたもの。従って、日本の樹木・桂ではなく、キンモクセイを想定しています。つまり、月+キンモクセイ=中国王朝の優雅さをイメージしたもので、造営場所・造営の基本志向共に、武家文化とは異なる、優雅な空間の実現にあったと考えて良いでしょう。事実、「桂離宮」には月を鑑賞する場所、舟遊びを楽しむ場所、茶会を楽しむ場所、酒宴を楽しむ場所などがあり、鑑賞のためのだけの庭・建物ではないと言う方向性が、最大の特性となっています。敷地も広大で、総面積約70,000㎡、庭園部の面積58,000㎡に及びます。
建築・造園の歴史を辿ってみると、細密な研究が行われているにもかかわらず、正確な時代・経緯は不明。ただ、断片的記録をつなぐと、主要な建物は約半世紀にわたり、3期に分けて造られたようです。1615〜1624年の間、「桂離宮」の前身となる茶屋が存在しました。そして、同離宮には3つの書院がありますが、最も古い「古書院」の建設は1615年頃との事。また、1625年には構華殿・築玉楼築造の記録があり、この頃までに第1次造営が完了したようです。さらに、1662年には第3次造営の記録かあり、1615〜1665年の約半世紀をかけて全貌が整ったとみてよいでしょう。
「桂離宮庭園」も同半世紀の間に、ほぼ完成したとみるべきでしょう。しかし、前述のように「中沼左京」「玉淵坊日首」等が作庭にかかわった可能性が強く、その活躍年代からして第1期に基本骨格は既に造られたと見るべきでしょう。
一口アドバイス。
「桂離宮=王朝+茶道文化のコラボ! そこには武家社会への反発も・・・」
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