「日本庭園と日本外構」:NO58
平安期以前の外構「興福寺」!
平安時代以前の寺院外構について検証中です。我が国最古の本格的寺院「飛鳥寺」、聖徳太子由来の「法隆寺」「四天王寺」を既に紹介しましたが、続いてこの項では「興福寺」を取り上げます。奈良時代を代表しかつその中では最も古い大寺であるからです。
「興福寺」は奈良市登大路町にある南都六宗の中の法相宗に属する寺院です。近鉄奈良駅とも近く、奈良公園への入り口付近、東大寺とも隣接と言った立地から、現代人にとって最もなじみ深いお寺の1つとも言えます。ただ、観光のメインとして「興福寺」を訪れる人は意外に少なく、一般人にとって大仏様拝観の通過点と言った印象が強いかもしれません。
「興福寺」の起源は極めて古く、藤原鎌足の病気平癒を願い、夫人の鏡大王が釈迦如来像を造り、同像を本尊としていると伝えられています。お寺直接の起源は、天智天皇が669年に現・京都市山科区に創建した「山階寺(やましなでら)」で、これを鎌足の子・藤原不比等が710年に現地へ移し現在の「興福寺」となりました。つまり、奈良時代第1号の大寺院と言う事になります。
ただし、前述のごとく奈良観光の中心部に位置し、立地条件が良すぎたためか、往時の広大な敷地・伽藍の大半は消失し、中心部と隣接施設の「猿沢池」周辺のみが残っています。だからこそ、今一つ強烈な印象が薄いとも考えられます。しかし、「興福寺」には膨大な資料が残されており、創建時の巨大な伽藍・外構等を含めた全貌を探ることは出来ます。具体的には、1700年代終盤~1800年代初頭の作と言われる、伽藍図を2種掲載しておきます。同資料を参考に、昔の「興福寺」がいかに巨大で、かつ、奈良時代初期のお寺がどのような全容を持っていたかを類推してみてください。
2つの図画で「興福寺」最盛期の面積・規模等を正確に知ることは困難です。しかし、「猿沢池」、その他の施設と全体を比較すると、外周を囲んだ土塀の長さは想像を絶するものであったことは間違いありません。
現在の興福寺伽藍略図
1800年前後に描かれた「興福寺伽藍」
大和名所画に登場した「興福寺」(1791年作?)
金堂と五重塔
南円堂
一口アドバイス。
「奈良時代のスタート=現・興福寺のスタートと言う巨大寺院!」
(みずき りょう)