「仏教タントリズム・資料編」
みずきりょう著
連載第147回
<第十一章> インドの歴史<BC300~AD500年頃>
52:「マウリヤ王朝」成立前夜②
「ナンダ王朝」は紀元前4世紀に「マガダ国」内で勃興しました。当時は、「シシュナーガ王朝」が支配権を握っていましたが、「ナンダ王朝」の基礎を築いた一族は強力な軍事力を養い、武力で急激に勢力を拡大し、「マハーパドマ」(偉大なパドマと言う意味で、実名は「パドマ」であったと考えられる)が同王朝を滅亡させ、新たに「ナンダ王朝」を打ち立てました。
そして、この王朝交代に際し後世に大きな影響を及ぼす出来事がありました。それは、前述したように「マハーパドマ」は「シュードラ」の出であったと言う事。当然のことながら、身分による秩序が重んじられた当時は、批判が噴出した事でしょう。しかし、批判はするが誰もその体制を覆すことが出来なかったと言う事です。
また、批判の大きさを裏付けるように、逸話が現代にまで残されています。「プラーナ文献」(古い物語と言う意味の「ヒンドゥー教」聖典の総称)では<「マハーパドマ」は「マハーナディン」と「シュードラ」の女との間に生まれた><「マハーパドマ」は全ての「クシャトリア(王・貴族・武士)」を滅亡させた>。「ジャイナ教」では<「マハーパドマ」は理髪師と娼婦との間に生まれた子>だと言ったもの。それだけ重大な出来事で、ショックが大きかったと言う証です。
この他、「ナンダ王朝」はインドの度量衡を初めて作った、独自の貨幣を発行しかつ莫大な富を築いた、と言ったエピソードも伝えられて言います。下層の出身であったからこそ、武力で他を圧したが、その一方で、先進的な経済政策も取り入れたと言う事でしょう。つまり、単なる下層階級云々ではなく、インド社会を大きく変えた王朝でもあったと言う事。おそらく、「クシャトリア」の出身国であれば、このような改革は行われなかったでしょう。また、これまでは伝承を基にした推測に過ぎなかったことが、考古学により次第に実証されつつあるとの事です。余程のインド通で無ければ、「ナンダ王朝」の名前さえ殆どの方はご存じないかもしれません。しかし、間違いなくインド史に重要な足跡を残した王朝でした。
余談ですが、「マガダ国」にはある有名な伝承が残され、それが日本にまで伝わっています。概略は以下の通り。
「マガダ国」は千の小国を征服。その王が軍臣を従え山中に分け入った時獅子と出会う。家臣は逃げ出したが、王はその獅子と契りを結ぶ。そして、子が生まれたがこの子の足には斑模様があった。そこで彼は「斑足王」と名付けられた。
やがて即位した「斑足王」は人肉を食らい、人肉を得るため非道を繰り返した。これに反発した、周辺小国の王は「斑足王」を追放。しかし、山に住む鬼たちはこの王を慕い大王として崇める。
やがて、「斑足王」は鬼の軍隊を率い小国を責め、殆どの王を捕えてしまう。
最後に残った「須陀須王」は自ら「斑足王」に会い、仏法(無常・苦・空・無我とは何か)を解く。すると、「斑足王」は改心し小国の王を開放し、徳のある政務を行うようになった。
以上です。
勿論、仏法の素晴らしさを示した伝承ですが、下層階級・諸国統一と言った歴史を持つ「マガダ国」に相応しい話でもあるように思います。また、「マガダ国」が「仏教」を重要視した証とも言えます。
「歌川国芳」が描いた「斑足王」の伝承を現した浮世絵
画像:Wikipediaより