みずきりょう

<ライター「みずきりょう」のブログ> インド哲学・仏教関連の著作物、エクステリア(住まいの屋外空間)・ガーデン関係の著作物を随時連載していきます。 ご愛読いただければ幸いです。

2020年09月



「仏教タントリズム・資料編」



        みずきりょう著


         連載第147回


<第十一章> インドの歴史<
BC300AD500年頃>

 

 

52:「マウリヤ王朝」成立前夜②


「ナンダ王朝」は紀元前4世紀に「マガダ国」内で勃興しました。当時は、「シシュナーガ王朝」が支配権を握っていましたが、「ナンダ王朝」の基礎を築いた一族は強力な軍事力を養い、武力で急激に勢力を拡大し、「マハーパドマ」(偉大なパドマと言う意味で、実名は「パドマ」であったと考えられる)が同王朝を滅亡させ、新たに「ナンダ王朝」を打ち立てました。

そして、この王朝交代に際し後世に大きな影響を及ぼす出来事がありました。それは、前述したように「マハーパドマ」は「シュードラ」の出であったと言う事。当然のことながら、身分による秩序が重んじられた当時は、批判が噴出した事でしょう。しかし、批判はするが誰もその体制を覆すことが出来なかったと言う事です。

また、批判の大きさを裏付けるように、逸話が現代にまで残されています。「プラーナ文献」(古い物語と言う意味の「ヒンドゥー教」聖典の総称)では<「マハーパドマ」は「マハーナディン」と「シュードラ」の女との間に生まれた><「マハーパドマ」は全ての「クシャトリア(王・貴族・武士)」を滅亡させた>。「ジャイナ教」では<「マハーパドマ」は理髪師と娼婦との間に生まれた子>だと言ったもの。それだけ重大な出来事で、ショックが大きかったと言う証です。

 この他、「ナンダ王朝」はインドの度量衡を初めて作った、独自の貨幣を発行しかつ莫大な富を築いた、と言ったエピソードも伝えられて言います。下層の出身であったからこそ、武力で他を圧したが、その一方で、先進的な経済政策も取り入れたと言う事でしょう。つまり、単なる下層階級云々ではなく、インド社会を大きく変えた王朝でもあったと言う事。おそらく、「クシャトリア」の出身国であれば、このような改革は行われなかったでしょう。また、これまでは伝承を基にした推測に過ぎなかったことが、考古学により次第に実証されつつあるとの事です。余程のインド通で無ければ、「ナンダ王朝」の名前さえ殆どの方はご存じないかもしれません。しかし、間違いなくインド史に重要な足跡を残した王朝でした。

 

 余談ですが、「マガダ国」にはある有名な伝承が残され、それが日本にまで伝わっています。概略は以下の通り。

「マガダ国」は千の小国を征服。その王が軍臣を従え山中に分け入った時獅子と出会う。家臣は逃げ出したが、王はその獅子と契りを結ぶ。そして、子が生まれたがこの子の足には斑模様があった。そこで彼は「斑足王」と名付けられた。

やがて即位した「斑足王」は人肉を食らい、人肉を得るため非道を繰り返した。これに反発した、周辺小国の王は「斑足王」を追放。しかし、山に住む鬼たちはこの王を慕い大王として崇める。

やがて、「斑足王」は鬼の軍隊を率い小国を責め、殆どの王を捕えてしまう。

最後に残った「須陀須王」は自ら「斑足王」に会い、仏法(無常・苦・空・無我とは何か)を解く。すると、「斑足王」は改心し小国の王を開放し、徳のある政務を行うようになった。

以上です。


勿論、仏法の素晴らしさを示した伝承ですが、下層階級・諸国統一と言った歴史を持つ「マガダ国」に相応しい話でもあるように思います。また、「マガダ国」が「仏教」を重要視した証とも言えます。

 この伝承は日本にも伝わり、「曽我物語」「太平記」、それに絵本や歌舞伎のシーンとしても取り入れられています。 


173:歌川国の斑足王

「歌川国芳」が描いた「斑足王」の伝承を現した浮世絵 
画像:Wikipediaより




 

「日本庭園と日本外構」:NO250

作庭書「築山庭造伝・後篇中」⑧!

 


「築山庭造伝・後篇中」
・・・秋里離島著 1828年の作

 

注意事項:「築山庭造伝・後編」に関しては、他の作庭書以上に図面・イラストが多用されていると推定されるが、残念ながら中谷ゼミ資料に同添付はない。

 

9:草木の扱い方に関する事

*苔は、取ってきた時に痛まないよう注意し、さらに水をタップリと含ませてから植える。固定させるため、ある程度踏み付けて植えても良い。苔が不足した場合は、細かく分けて土を加えて増やし植えこむ。そして、適度に水やりを行う。タイミングとしては、春が良く、1ヶ月あまりで活着する。つまり、夏には立派な苔庭となると言う事。ただし、陽射しの強いところは避けるべきだ。また、苔は砂地を嫌い、黒土を好む。

 

*萩を植える場合は3月が良い。草木の共通点でもあるが、何らかの弱さを持っている。だから、強くて勝手に育つなどと思ってはならない。また、肥料を与えすぎても枯れてしまう事がある。特に、6月(旧暦)の土用後には施肥を行わない。さらに、花が咲き終えるとすぐに剪定する事。

 

*山吹を育てる場合は、植え替えを頻繁に行ってはならない。新芽は寒さが厳しいとすぐ枯れてしまう。山吹は春に花を咲かせる植物であり、秋の手入れがポイントとなる。そして、水辺の植物であり、水が少ない山などでは、花が小さく少なく、色も悪くなる。管理方法としては、秋〜冬、または花が咲き終えた後に、枝葉を整え肥料を施す。こうすれば、翌年の花付が良くなる。

 

*カキツバタは23年に一度植え替える。そうしないと花が小さくなる。泥が深くあるのは良く、浅いのは良く無い。花が枯れた後20日が経過した頃に刈り取る。ただし、四季咲きは刈り取らない。

 

*万年青(オモト)と藜蘆(シュロソウ=原産地日本の薬草。ただし、ここでの藜蘆が同じものか否かは不明)は黒土に砂を混ぜて植える。鉢植えとは異なり地植えの場合は、上品に見えるように注意する事。全体的には鋤形でややまばらな感じが良い。石菖(セキショウ)・山梔子(ヤマクチナシ=クチナシの実で作る漢方薬。ただし、ここでは山梔子がクチナシを指すのか不明。記載内容に矛盾があるため)など水辺の植物もほぼ同じ扱いとなる。

 

*桜は剪定を嫌う樹木だ。植える時も大きな木は接ぎ木でなくてはならない。また、苗木の大小にかかわらず、根を切ってしまっては着かない。だから、枝も根も切ることなく活かして育てる。複数の種類を植える時は、桜と桜の間に松を植えると良い。松の変わらぬ緑と、濃淡のあるピンク系の桜の花が見事に調和するからだ。

*紅葉(モミジ)は湿った土壌を好む樹木だ。また、剪定しすぎると枯れる。そして、小さな苗木から育てるようにしなさい。また、陽当たりが悪いと紅葉しないのでこの点も注意する事。陽春に植えると大きな木でも着きやすい。しかし、3年以内に突然枯れることもある。この点を考慮し手入れを良く行うこと。もっとも、大きく育つと施肥の必要もなく楽になる。とにかく、紅葉(モミジ)は葉に陽を良くあてる事。これがポイントだ。

 

*松の植え替えは102月(旧暦)に行う。新しく掘り上げた木は、1月の終盤(ただし旧暦なので早春と言う事)に植えるのが一番良い。新しい葉が全く生えてこない時期は逆に避けるべきだ。要するに、寒さに向かう秋~冬より、温かさが増してくる早春~新しい葉が育ってしまうまでの間が良いと言う事。そう覚えておきなさい。

 

植えた後は毎年細かな管理作業を行う必要はない(むしろ、毎年の剪定は不可)。ただし、葉の整理は絶えず行う。ここが松と他の木との相違でもある。他の樹木は毎年剪定しても、再度枝葉が伸びる。そのような強い根を持っているからだ。しかし、松は根と葉が揃って初めて育つ。だからこそ、剪定ではなく葉の整理を行うことで健康な木となる。この他、松は湿気が多く水はけの悪い土地を極端に嫌う。だから、山地で良く育つ。同時に、その枝の伸び方に独特の魅力がある。土壌が適した、池や湖の近くに松がある時は、枝がよく伸びて最高だ。

 

松は植え方・育て方を覚えれば、決して難しい樹木ではない。多くの人は、そのポイントを知らないから失敗する。例えば、地上に根が出たときは切っても良い。腐った根も切るべきだ。根鉢は崩さないようにする。植え込みの時は、深くならないよう(浅植えにする)にする。云々。

 

一口アドバイス。

「植栽編分かりやすく参考点多し。桜・松等については特に注目!」

(みずき りょう)


250:シュロソウ

藜蘆(シュロソウ) 


250:セキショウ
  
石菖(セキショウ)


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 10月15日(木)の「egg-東日本地区定例会」は<国際ガーデンEXSPO>の見学を兼ね開催!



egg-東日本地区定例会」

*開催日時:2020年10月15日(木) 13:00~17:00

*開催場所:幕張メッセ

 

株式会社幕張メッセ

〒261-8550 千葉市美浜区中瀬2-1

TEL:043-296-0001(代) FAX:043-296-0529

〇10月の「egg-東日本地区定例会」は<国際ガーデンEXSPO>見学後同会場内で実施!

 

注:今回は「無料体験参加者」の募集は行っていません!



Buddha-ism

第2改訂版

 

 「仏教」について語ってみたいと思います。閉塞状況の現代社会に最も必要な思

 考体系だと思うからです。本書は、特定の宗教を広めようとする主旨によるもので

 はありません。ただ、仏教のすばらしさが、あまりにも誤解を持って伝えられ、本当

 の魅力とは程遠いイメージが定着してしまっているからです。

 これほど「mottainai」ことはありません。出来るだけ客観性に富んだ視点で、分か

 りやすく「仏教の考え方」を伝えたいと思います。ぜひ目を通して見て下さい。

 

みずき りょう


 

第五章 「アーラヤ識」と「唯識派」

 

 

 NO―14 「華厳経」「法華経」「解深密教」の世界


 

「法華経」って何だ?④


 

「法華経」が伝えたかった事

 続いて、「法華経」の特性とそれが持つ意味について、検証しておきます。

1の特性:長編かつ超大スケール(膨大な登場人物・無限とも言える時間、等)

2の特性:比喩が非常に多い

3の特性:誰でも救済され悟りを開くことが出来る、と言う事が繰り返し述べられている

4の特性:多くの同一経典を集大成したものと言われているが、「華厳経」と比較すると一貫性があるように思える。

5の特性:100200年頃に成立したと推定される。

以上です。

 ではこれらの特性は何を示しているでしょうか。筆者の見解も加え「法華経」は何を伝えようとしたのかについて纏めておきます。

 まず、第1の特性、スケール大きさに関しては、「華厳経」と共通するものでもあります。逆に言うなら、それ以前の「初期経典類」「般若経類」には無かった特性でもあります。付記するなら、スケールだけなら「華厳経」に負けるかもしれませんが、文学的魅力はそれを上回るという事。

 この点については、日本の仏教界であまり取り上げられることは無いようですが、極めて重要な特色だと思います。つまり、<読み物としての面白さを強く意識した経典>で、この点は「ヒンドゥー教」の長編聖典「マハーバーラタ」「ラーマーヤナ」とも共通性がります。成立時代もダブります。つまり、結果として面白い読み物となったのではなく、意識して面白くしたと見るべきでしょう。つまり、「法華経」は高度な演出効果を狙った経典であったという事です。

 第2の特性、比喩に関しては、2つの視点で捉えることができます。1つは、前項と同じ面白くする効果。2つ目は、方便を重要視しているという事。この点に関しては「法華経」が<二乗・三乗論で成り立っている>とされる重要な根拠にもなっています。著名な7つの比喩でも分かる通り、意識のあまり高くない凡人をも救うための涙ぐましい努力がそこにあります。裏を返せば、<お釈迦様や「菩薩」達はそれほど頑張って私達を救おうとしている>と言うアピールでもあります。

 第3の特性、万民の救済に関しては前項とも共通性があり、さらに発展し<全ての人は救済される資格を持っている>~<全ての人は仏性を備えている>と言う発想に繋がっていきます。つまり、「法華経」は「如来蔵思想」と言う後の「仏教」の多く強調するようになった、考え方を示した草分け的経典と言って過言ではないでしょう。勿論、それは「大乗仏教」の共通項でもあり「般若経類」にもそのような考え方は示されています。ただ、それがメインテーマと感じさせるような構成にはなっていません。

 なお、この視点から研究者によっては「法華経」は「具(ぐ、備えているという意味)」の経典だとする人もいます。
<注:「華厳経」の場合は「起(き、最初と言う意味)」の一字があてられることがある>

 第4の特性、一貫性にと言う視点に関しても日本の仏教界ではあまり重要視されていないように思います。しかし、成立形態・時期~インド仏教に及ぼした影響等を考えると、極めて重要な要素だと思います。

 「法華経」のストーリー・比喩等を見ると、編纂されるに当たりヒントとなる多くの資料が既に存在していた(元となる経典類、等)と見るべきです。ただし、「華厳経」と異なりインドで、しかも比較的短期間でかなり意識的に編纂されたのではないでしょうか(この部分は推測)? だからこそ、長編でありながらかなり一貫性のある作品となり、その分読み物としても面白いものとなった。しかも、意図的にそれが行われた。そう思えてなりません。表現を変えれば、この文学的価値自体も「法華経」を語る重要要因だと見るべきでは無いでしょうか。

 第5の特性は、100200年頃と言う成立年代。この点もスルーされている場合が多いようですが、「法華経」の役割を語るうえで見逃すべきではありません。なぜなら、(「華厳経」同様)「仏教」が大きく変化する切掛けとなったからです。

 「中観派」「唯識派」のコーナーでも触れましたが、筆者は<「仏教」はこの間に大きく変化した>と考えています。「初期仏教」~「中観派」までは理念的要素が強く、かつ表現もシンプルであった。しかし、「唯識派」以降は救済色が極端に強まり(場合によっては理念的、あるいは哲学的要素がほぼゼロの場合も)、経典自体も派手さが増し演出ばかりを意識したものが急増するからです。最も、その後「華厳経」「法華経」より文学的?に面白い経典は生まれなかったようですが・・・

 要するに、内容も重要だが、「華厳経」「法華経」は「仏教」に大きな変化をもたらせた経典であるという事。しかも、絶妙のタイミングで編纂され広まったという事。よりあからさまに言えば、「中観派」に続き「唯識派」が登場。ほぼそれと同時進行で「華厳経」「法華経」が登場し、活用されたという事。この2つの経典が出来たから「唯識」と言う一種の観念論or唯心論が確立されたのか、「唯識」と言う発想をより強烈にアピールするため「華厳経」「法華経」が使われたのか。ニワトリが先かタマゴが先か。この点の判断は難しいが、以後の「仏教」は、救済色と精神論中心の考え方へと傾斜していくことだけは間違いのない事実です。補足するなら、日本の「仏教」は「唯識派」以降の考え方が主体となっており、それ以前の「仏教」を軽視する傾向が極めて強いという点も見逃すべきではありません。



117:蓮の華

97:蓮の華・・・泥沼の中でも清らかな花を咲かせる蓮。言うまでもなく「華厳経」「法華経」の象徴でもある。
画像:Wikipediaより





「仏教タントリズム・資料編」



        みずきりょう著


         連載第146回


<第十一章> インドの歴史<
BC300AD500年頃>

 
 <第六章>で「インダス文明」前夜~お釈迦様とその弟子が活躍した時代(
BC400300年頃)のインドの歴史について検証しました。これまでに何度か触れたとおり、あらゆる文化・思想・宗教等を検証する時、<時代の影響>を無視することは出来ないからです。

 そして、<第7章>~<第十章>までに関しては、時代的にはBC300AD500年頃の出来事となります。そこでこの<第十一章>ではこの間のインド歴史を確認し、それと対照することで<なぜそのような考え方・動きがあったか>について考えます。

 

 

 

52:「マウリヤ王朝」成立前夜①

 

 ご存じの方も多いと思いますが、インドでは「マウリヤ王朝」が初めて統一を成し遂げます。つまり、同王朝以前は複数の国が群雄割拠していたと言う事。そして、お釈迦様の少し前の時代(BC600年頃)には<第六章>に提示した通り、16の有力国(十六大国時代)が頭角を現し覇権争いし、BC400年代には「マガダ」「コーサラ」「ヴァンサ」「アヴァンティ」の4ヶ国にまで淘汰が進んでいたとされています。

 つまり、お釈迦様以前~お釈迦様直後の時代とは、中国の春秋後期~戦国時代と良く似た様相を呈していたと言う事。面白い事に年代もほぼ同じです。

 そして、413年についに「マガダ国」が抜け出し他を圧倒します。ただし、支配エリアはガンジス川流域に限られており、インド全体を統一するには至っていません。

 「マガダ国」(漢字の仏典では「摩訶陀国」と表記されていた)は言うまでもなく「十六大国」の1つで、ガンジス川下流域に位置していました。そして、最も興味深いのはこのエリアには下級カーストの住民が多く、既に「十六大国時代」にはそれなりの地位に就くものも多かったと言う事実。一種の下克上のような事が目立つエリアであったわけです。当然のことながら、「バラモン階級」の人々からは白い目で見られていました。現にバラモン系の文献では「キータカ」と言う呼称が使われ、軽蔑の意味が含まれた単語でもありました。

 つまり、「十六大国」の中から「マガダ国」が抜け出した事自体が、大きな時代変化であったと言う次第。インドは現代まで続く階級制度(カースト制度)の国です。ただし、名目上の支配者と実質上の支配者が、「マガダ国」の台頭により違ってくるようになってきたと見て良いでしょう。

 もう一点注意すべきことは、「マガダ国」と言う名称が使われるため、歴代の王は一系統と誤解されがちですが、実際には複数の王朝が入れ替わっていたと言う点。叙事詩「マハーバーラタ」にも登場する「プリハドラ王朝」、古都「ラージャグリハ(王舎城)」から首都を「パータリプトラ(華氏城、現在のパトナ)」に移した「ウダーイン王」とその王朝、終盤に栄えた「シシュナーガ王朝」、そして、「マガダ国」と「マウリヤ王朝」の橋渡し役となった最後の「ナンダ王朝」などの名が良く知られています。

 ただ、これらの王朝に関しては資料が極めて乏しく、一般人がその実態を詳しく知ることは極めて困難な事だと言わざるを得ません。

 また、最後の「ナンダ王朝」に関しては、王は<「シュードラ(奴隷階級)」出身>であったとされています。それ以前の王(王朝)もおそらく下層階級の人がかなり含まれていたと見るべきでしょう。



マガダ国の貨幣

 

「マガダ国」で使われたいた貨幣 
画像:Wikipediaより



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