みずきりょう

<ライター「みずきりょう」のブログ> インド哲学・仏教関連の著作物、エクステリア(住まいの屋外空間)・ガーデン関係の著作物を随時連載していきます。 ご愛読いただければ幸いです。

2020年11月



「仏教タントリズム・資料編」



        みずきりょう著


         連載第164回


<第十一章> インドの歴史<
BC300AD500年頃>



 

54:「マウリヤ王朝」後のインド⑬


 

「マウリヤ王朝」滅亡後~「グプタ王朝」期の「仏教」②

 

 

 しかしもう1点、絶対に見逃すことが出来ない大きな変化がありました。それは、「バラモン教」自体の変化です。具体的には、「バラモン教」の大衆化が徐々に進み、並行して「ヒンドゥー教」の骨格が少しずつ固まって行ったと言う事。このような動きはBC500400年頃に始まり、「グプタ王朝」時代(300500年頃)に移行が完了したと見て間違いありません。

 つまり、800年程かけてゆっくりと変化したと言う事。随分スピードが遅いように思いますが、国家のように人為的な移行ではなく、生活に根を下ろした宗教(あるいは宗教文化)の事であり、むしろ当然と言えるかもしれません。

 この間には、経典類にも大きな変化がありました。「バラモン教」時代では、「ヴェーダ類」「ウパニシャッド類」が主要経典でしたが、「ヒンドゥー教」への移行期には「マハーバーラタ」「ラーマーヤナ」などの叙事詩や「マヌ法典」などが聖典として加わります。

 それどころか、神様(主神)までもが「アグニ」「アスラ」「インドラ」などから、「シヴァ」「ヴィシュヌ」「ブラフマン」などへと変化。さらには、「ガネーシャ」のような現世利益や大衆宗教行事に欠かせないものまで登場し、一般の人達にさらに受け入れられやすい宗教へと変貌します。

 この移行とは即ち、信仰する人の人口がこの800年間に膨大な数に増えたと言う事でもあります。つまり、支配者層の考え方だけではなく、「バラモン教」~「ヒンドゥー教」へと変化した事で巨大な民衆パワーが生まれ、誰もそれを無視することが出来なくなったと言う事。

 「サータヴァーハナ王朝」「クシャーナ王朝」時代が終わると、少し混乱期が続いた後に「グプタ王朝」が登場し、その隆盛期には「マウリヤ王朝」時代に近いエリアを制覇。同時にインドは、経済・産業・文化共に大きな発展を遂げ、1つの爛熟期を迎えます。あくまで筆者の所見ですが、中国の唐時代、主要都市は唐の都長安に近いようなイメージではなかったでしょうか?

 そして、同王朝時代には「バラモン教」~「ヒンドゥー教」への移行がほぼ終わり、さらに信仰者の人口が爆発的に増えたと考えられます。ただし、長安と同じように複数の文化・宗教が共存する社会は継続していました。と言うより、それが当然の事のように認められていたと推定されます。つまり、「ヒンドゥー教」も「仏教」もある意味の<我が世の春>を迎えていたと判断して良いでしょう。

 従って、両者は他の思想・宗教も含め(論争などは別として)正面切っての敵対行動は殆どなく、むしろ「ヒンドゥー教」行事・習慣を「仏教」側が受け入れると言った記録も多数残されています。

 ただ、繰り返しますが、「グプタ王朝」時代に「ヒンドゥー教」の信者数が爆発的に増加しました。それは、「仏教」やその他の思想・宗教をはるかに凌ぐものであったでしょう。つまり、保護はされていたものの、次の時代で「仏教」受難が始まる下地のようなものがこの時期に出来上がったと判断すべきです。

 補足するなら、「ヒンドゥー教」が急速に広がるのと並行し、「ヒンドゥー教タントリズム」も芽生え、次第に無視できぬ存在となります。そして、その影響は「仏教タントリズム」が生まれる主要因にもなります。



197:ヒンドゥー教」のお祭り

「ヒンドゥー教」のお祭り風景・・・「ヒンドゥー教」は大衆の間に完全に浸透し、現在もその信仰者数はインド人口の圧倒的多数を占めている。
画像:Wikipediaより




 

「日本庭園と日本外構」:NO268

意外と知らない「明治時代」とは②?

 


 「明治時代初期」とはどのような時代であるかを確認しました。それは、表面的には天皇制を復活させましたが、実質的には武士を中心とした幕藩体制が完全に崩壊し、新政府をベースに民主化を目指した激動の時代でした。では、前〜中期にはその民主主義を定着させることが出来たのでしょうか?

 

朝鮮に開国を迫った、西郷隆盛・板垣退助などの征韓論が、大久保利通・岩倉具視など新政府側の国内優先論に敗れ、半ば破れかぶれで、西郷隆盛を軸とした旧武士勢力は、1877年に西南の役を勃発させ敗退。これにより、武士勢力は完全に崩壊しました。「武士の死に場所を求めた、敗戦を知りながらの最後の戦いであった」と伝えられていることは前項の通りです。

 

その後は、新政府側が勝利したのであり、当然のことながら国内重視・民主化重視の方向で歩みを開始します。1889年の大日本帝国憲法制定・伊藤博文の初代総理大臣就任は、その象徴的出来事であったと言えます。しかしその一方で、学ぶべき欧米への対向意識・朝鮮半島〜清国への覇権意識も次第に増幅していきます。つまり、征韓論とは別の、天皇を基軸としたアジア進出〜アジア支配意識が次第に強まって行ったと言う事。

 

具体的には、1882年の任午事変(朝鮮・ソウルの反乱事件で日本施設も襲撃を受け、これを名目に反撃を行い軍隊を常駐させた)、1884年の甲申政変(朝鮮で起こったクーデターで、日本はこれを機に朝鮮での勢力を拡大)等を経て、同じく朝鮮での勢力拡大を目指し清国と対立を深めます。要するに、朝鮮の内乱に乗じて日本と清国が、同国への権利拡大を求めぶつかり合うようになると言う事。このような日本の行動を、防衛のための当然の行為と取るか、内乱鎮圧を名目とした植民地化政策と取るかの判断は人により様々でしょう。ただいずれにしても、日本はこの段階で海外覇権をベースとした勢力拡大への道を辿り始めたことは、間違いありません。つまり、大筋では民主化を目指した内政充実意識と対極の覇権主義、二つの道を同時に歩み始めたと言う事。

 

そして、1894年には、日・清の対立は決定的となり日清戦争を勃発させます。そして、日本が勝利し、朝鮮の独立(実質的には日本の支配権の強化)、遼東半島・台湾等の割譲、多額の賠償金、重慶・長沙・蘇州・杭州の開港・・・など大きな利益を得ます。これにより「眠れる獅子に勝利した」と言う事で、日本は大きな自信を得ます。それは、欧米に脅かされ続けた恐怖心・劣等感から解放され、大きな自信を付けた出来事でした。しかし、その自信がやがて過信となり、さらにアジア全域支配と言う妄想までも生み出します。

 

日本の軍国主義化はいつからスタートしたのか。これは、近代史最大のテーマです。当然、研究者の意見も様々です。しかし、筆者は朝鮮権益を強めようとした段階で、既にその意識が出来上がり、日清戦争で具体化して行ったと考えています。勿論、民主化意識もその一方で高まり進化していきました。しかし、民主化優先・覇権主義  第二と言う発想は、明治時代初期までで、その後は一貫して、覇権主義優先・民主化第二と言う方向であったと考えざるを得ません。

 

一口アドバイス。

「つかの間の民主主義優先志向〜覇権主義優先志向国へ・・・」

(みずき りょう)


268:伊藤博文

日本の初代総理大臣・伊藤博文


268:鹿鳴館

欧米文化を吸収するための拠点となった鹿鳴館


268:帝国健保発布式

大日本帝国憲法発布式典




Buddha-ism

第2改訂版

 

 「仏教」について語ってみたいと思います。閉塞状況の現代社会に最も必要な思

 考体系だと思うからです。本書は、特定の宗教を広めようとする主旨によるもので

 はありません。ただ、仏教のすばらしさが、あまりにも誤解を持って伝えられ、本当

 の魅力とは程遠いイメージが定着してしまっているからです。

 これほど「mottainai」ことはありません。出来るだけ客観性に富んだ視点で、分か

 りやすく「仏教の考え方」を伝えたいと思います。ぜひ目を通して見て下さい。

 

みずき りょう


 

第六章 

インドの「浄土系」と「密教系」グループ

 

 

 

 

 

NO―18 「アミターユス(アミターバ)」の世界

 

 


インドの浄土系思想とその実態②


 

 「阿弥陀如来」の正確な出現時期に関しては、特定がかなり難しいと言うのが現状です。ただ、インド北部に比較的足跡が多い、「クシャーナ王朝(イラン系王朝、13世紀頃)」との深い関連が指摘されている(ただし近年では、「クシャーナ王朝」下での主力グループは「説一切有部」などの「部派仏教」であったとする説が有力)等の理由で、ゾロアスター教・ミトラ教・キリスト教などの影響を受け誕生したと言う説を唱える学者も少数派ではあるが存在します。<西>がキーワードとなっている、「アミターユス or アミターバ」は如来(仏)と言うより神に近い側面を持つ・・・と言った点を考慮すると、筆者は西アジア・ヨーロッパ宗教の影響を受けて誕生したとする説を、無視すべきではないと考えています。

 また、その他の足跡も考慮すると、「阿弥陀如来」、あるいはそれに近い存在は12世紀頃に登場したと推定して良いのではないでしょうか。ただし、「浄土系」の仏教集団がインドに本格的に表れたのは、さらに12世紀後(つまり、200400以降)と推定されます。ではなぜこのようなアバウトな表現しかできないのでしょうか?

 理由は、「中観派」「唯識派」などと比較すると、インドでは「浄土系」の目立った活動記録があまり無いからです。「ナーガールジュナ(龍樹)」や「ヴァスヴァンドウ(世親)」のようなスーパースターもいませんでした。従って、<インドで「浄土系」仏教は主要な地位を持つことは出来なかった>と解釈した方が正解ではないでしょうか。つまり、<「浄土系」は中国に渡り一定の基盤を作り、さらに日本で「法然」「親鸞」等が主要な仏教の一つに育て上げた>と解釈すべきでしょう。

 では、主役の「阿弥陀如来」はどのような経典にどのような形で登場するのでしょうか?

 この点に関しては明快で、「無量寿経」(サンスクリット語で「スカーヴァティー・ヴューハ」。意味は「極楽の荘厳さ」)「阿弥陀経」(サンスクリット語名は「無量寿経」と同じ)。「観無量寿経」の3種が主対象となります。ただし、「観無量寿経」に関しては(インドでの)原典が発見されておらず(従って、サンスクリット語の原典名も存在しない)、中央アジアor 中国で作出されたとする説が有力です。

実は、漢文以外ではウイグル語の「観無量寿経」も現存しますが、むしろ、漢文の同経典を訳したもののようで、ことら方が新しいと考える専門家が多数を占めています。

 ここで一つの疑問が。「無量寿経」と「阿弥陀経」は何故サンスクリット語名が同じなのでしょうか? 実は「無量寿」と「阿弥陀」は同じ言葉で、当時のインドでタイトルが同じであってむしろ当然なのです。つまり、阿弥陀とは「アミタ」の漢字音写でその意味(漢訳)が「無量寿」と言う次第。でもなぜ、2つの経典を作出したのか。この点については、少なくとも筆者が知る限りでは不明です。

 ただし、「無量寿経」と「阿弥陀経」を区別する為、前者を「大経」後者を「小経」(「無量寿経」の方が長編)と呼んでいます。また、「無量寿経」「阿弥陀経」「観無量寿経」をセットで「浄土三部経」と呼びます。もしこの「浄土三部経」に何が書かれているか詳しく知りたい方は、岩波文庫の<浄土三部経(上下2巻)>をお勧めします。勿論、現代語訳付きです。本書では、「無量寿経」「阿弥陀経」「観無量寿経」の概要だけをいかに提示しておきます。



120:阿弥陀仏・チベット

120:チベットの「阿弥陀仏」画・・・インド・中央アジア・チベットなどでも「阿弥陀仏」の痕跡はあるものの極めて少ない。



「仏教タントリズム・資料編」



        みずきりょう著


         連載第163回


<第十一章> インドの歴史<
BC300AD500年頃>



 

54:「マウリヤ王朝」後のインド⑫


 

「マウリヤ王朝」滅亡後~「グプタ王朝」期の「仏教」①

 

 「マウリヤ王朝」を生み出した「マガダ国」エリアは、下級カーストの人達の活躍が目立った地域でした。具体的には、「ヴァイシャ」「シュードラ」等の出身者が商売などで財を成したニューリッチなどが台頭し、社会的地位を得るようになり、さらに、下級カースト者の中から地域の有力者・支配者も多く生まれたと推定されます。

 それだけではなく、「バラモン教」に批判的な新興思想・宗教をニューリッチ達が保護し、急速にその勢力を伸ばしたと考えられます。勿論、「仏教」もその1つ。

 現に、「ナンダ王朝」(「マウリヤ王朝」前の「マガダ国」の支配者)と「マウリヤ王朝」の王族も下層カースト出身者であった可能性が強いことは既に提示済み。そして、これらの王朝(王)の存在が、「仏教」等にとり大きな追い風となりました。

 しかし、ここで異変が起こります。「マウリヤ王朝」を滅ぼした「シュンガ王朝」、さらにそれを引き継いだ「カーンヴァ王朝」は、「マガダ国」系の王朝でありながら、「バラモン教」回帰の政策を打ち出し、「仏教」他の新興思想・宗教は一定の打撃を受けます。最も、それが弾圧にまで繋がったかのか、保護政策を止めただけかは判然としません。

 その後、インド中南部の「アーンドラ国」エリアでは、それまで支配権を維持していた「ドラヴィダ族」系人達から、「アーリア人」が支配権を奪い「サータヴァーハナ王朝」を樹立。そして、勢力を北に伸ばし「マガダ国」エリアにまで拡大します。

 それだけではなく、「サータヴァーハナ王朝」もまた「バラモン教」を保護し、インド文化の復古主義を継続します。ただ、並行して「仏教」などの新興文化・宗教も保護し、様々な考え方が共存共栄出来る時代であったと考えるべきでしょう。

 あの巨星「ナーガールジュナ」が生まれ活躍したのも「サータヴァーハナ王朝」後期であり、「仏教」が一定に勢力を維持し、国もまたそれを認めていたことが分かります。

 「サータヴァーハナ王朝」とほぼ同時に、同国エリアのさらに北西部では「クシャーナ王朝」が台頭し、同王朝エリアでは「バラモン教」や「キリスト教」などの一神教の影響が殆どなかったため、「仏教」がさらに有利な立場に立ちます。そして、「ガンダーラ」「マトゥラー」の両地方で仏像が作り始まられ、後の絢爛たる仏教芸術(文化)を生み出す切っ掛も創り出します。また、「クシャーナ王朝」3代目の「カニシカ王」は「仏教」の保護者として後世にまでその名が知られています。

 以上のように、同時代は「バラモン教」復活と、「仏教」の複数の考え方(「部派仏教」「中観派」、初期の「唯識派」等)、それにおそらく「十六大国時代」以降に生まれたその他の新興思想・宗教が並行して広まった、新旧共存共栄の時代であったと考えられます。


196:ガネーシャ

「ガネーシャ」・・・現世利益の象徴ともいえる「ヒンドゥー教」の神様。このような神様の登場で「ヒンドゥー教」を信仰する人口は爆発的に増えて言ったと推定される。
画像:Wikipediaより




「日本庭園と日本外構」:NO267

意外と知らない「明治時代」とは①?

 


 この項からは、「明治時代の庭園・外構」の実態を探っていきます。ただ、その前に「明治」とはどのような時代であったかを確認しておくことにします。維新と呼ばれる、明治の草創期については、ある程度知っていても、それ以外に何があり、どのような経過を辿ったか、良く分からない・・・こんな人も多いからです。

 

「明治時代」とは明治天皇が即位した1868年〜彼が崩御した1912年の45年間を指します。でも、「明治天皇」とはどのような人物で、どのような経緯で即位したのでしょうか? 彼は、江戸時代最後の孝明天皇(121代)の第二王子として1852年に生まれました。そして、1867年に孝明天皇が崩御し、それを受けて1868年に即位し122代天皇となりました。

 

そして、ここで特筆すべき事実が分かります。つまり、明治天皇の即位は萬年齢で14歳の時であったと言う事実です。当然の事ではありますが、激動の幕末〜明治維新〜明治初期に、10代中盤の天皇が指揮権を持ち動かしたなどと言ったことはあり得ません。良く、「明治天皇は優れた人物であった」と言った話を耳にします。しかし、少なくともこの時代には影響力をほとんど持たず、形式的な天皇であったと言う事です。ただし、1867年の大政奉還から、鳥羽・伏見の戦い(1868年)、戊辰戦争(1869年)等で徳川幕府が完全崩壊し、天皇制へと日本の基本的政治体制が移行します。従って、明治天皇は実権は持っていなかったが、日本の最高権力者となった訳です。この事実が、明治時代の実態を探るキーワードの1つであることを忘れてはなりません。

 

続いて、明治維新〜明治時代初期の動向を探ります。「五箇条のご誓文」(1868年)を定め、新しい政治理念の確立を目指した。同年に年号を明治と改め、天皇制を制定し、同時に首都を東京に移した。また、1869年には全ての藩と領民を天皇に返上させ、1871年には廃藩置県を実施し、完全に藩が消滅した。しかし、武家政治体制から新体制に移行するには多くの混乱が残りました。そんな中、西郷隆盛・板垣退助らは朝鮮に開国を迫る征韓論を唱え、日本の覇権主義・帝国主義化の基盤を作ろうとします。征韓論は海外進出で日本の富国強兵を目指そうとしたもの。しかし、その背景には行き場を無くした武士の活躍の場を無理に作ろうとした、と言った意味もありました。しかし、岩倉具視・大久保利通らの国内改革優先主義に敗れ、西郷隆盛は1877年に西南の役を勃発させ、武士の最後の戦いを明治政府に仕掛け完敗。名実ともに武士の世の中が終わりを告げます。「西南の役は武士の死に場所を求めた戦いであった」とも言われる所以がそこにあります。

 

いずれにしても、この段階で新政府の路線が定着します。それは、同時に天皇制を敷いてはいたが、民主主義へ向けた第一歩でもあったわけです。しかし、その後日本は、民主主義を進化させるのではなく、軍国主義・後れすぎた帝国主義へと舵を切ります。なぜでしょうか・・・

 

一口アドバイス。

「武士社会の終焉。そして、民主主義への第一歩。しかし、現実の歩みは・・・」

(みずき りょう)



267:西郷隆盛

西郷隆盛(この画像自体は別人説もあるが・・・)



267:大久保利通

大久保利通



267:西南の役

西南の役(西南戦争)

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