「仏教タントリズム・資料編」
みずきりょう著
連載第164回
<第十一章> インドの歴史<BC300~AD500年頃>
54:「マウリヤ王朝」後のインド⑬
「マウリヤ王朝」滅亡後~「グプタ王朝」期の「仏教」②
しかしもう1点、絶対に見逃すことが出来ない大きな変化がありました。それは、「バラモン教」自体の変化です。具体的には、「バラモン教」の大衆化が徐々に進み、並行して「ヒンドゥー教」の骨格が少しずつ固まって行ったと言う事。このような動きはBC500~400年頃に始まり、「グプタ王朝」時代(300~500年頃)に移行が完了したと見て間違いありません。
つまり、800年程かけてゆっくりと変化したと言う事。随分スピードが遅いように思いますが、国家のように人為的な移行ではなく、生活に根を下ろした宗教(あるいは宗教文化)の事であり、むしろ当然と言えるかもしれません。
この間には、経典類にも大きな変化がありました。「バラモン教」時代では、「ヴェーダ類」「ウパニシャッド類」が主要経典でしたが、「ヒンドゥー教」への移行期には「マハーバーラタ」「ラーマーヤナ」などの叙事詩や「マヌ法典」などが聖典として加わります。
それどころか、神様(主神)までもが「アグニ」「アスラ」「インドラ」などから、「シヴァ」「ヴィシュヌ」「ブラフマン」などへと変化。さらには、「ガネーシャ」のような現世利益や大衆宗教行事に欠かせないものまで登場し、一般の人達にさらに受け入れられやすい宗教へと変貌します。
この移行とは即ち、信仰する人の人口がこの800年間に膨大な数に増えたと言う事でもあります。つまり、支配者層の考え方だけではなく、「バラモン教」~「ヒンドゥー教」へと変化した事で巨大な民衆パワーが生まれ、誰もそれを無視することが出来なくなったと言う事。
「サータヴァーハナ王朝」「クシャーナ王朝」時代が終わると、少し混乱期が続いた後に「グプタ王朝」が登場し、その隆盛期には「マウリヤ王朝」時代に近いエリアを制覇。同時にインドは、経済・産業・文化共に大きな発展を遂げ、1つの爛熟期を迎えます。あくまで筆者の所見ですが、中国の唐時代、主要都市は唐の都長安に近いようなイメージではなかったでしょうか?
そして、同王朝時代には「バラモン教」~「ヒンドゥー教」への移行がほぼ終わり、さらに信仰者の人口が爆発的に増えたと考えられます。ただし、長安と同じように複数の文化・宗教が共存する社会は継続していました。と言うより、それが当然の事のように認められていたと推定されます。つまり、「ヒンドゥー教」も「仏教」もある意味の<我が世の春>を迎えていたと判断して良いでしょう。
従って、両者は他の思想・宗教も含め(論争などは別として)正面切っての敵対行動は殆どなく、むしろ「ヒンドゥー教」行事・習慣を「仏教」側が受け入れると言った記録も多数残されています。
ただ、繰り返しますが、「グプタ王朝」時代に「ヒンドゥー教」の信者数が爆発的に増加しました。それは、「仏教」やその他の思想・宗教をはるかに凌ぐものであったでしょう。つまり、保護はされていたものの、次の時代で「仏教」受難が始まる下地のようなものがこの時期に出来上がったと判断すべきです。
補足するなら、「ヒンドゥー教」が急速に広がるのと並行し、「ヒンドゥー教タントリズム」も芽生え、次第に無視できぬ存在となります。そして、その影響は「仏教タントリズム」が生まれる主要因にもなります。
「ヒンドゥー教」のお祭り風景・・・「ヒンドゥー教」は大衆の間に完全に浸透し、現在もその信仰者数はインド人口の圧倒的多数を占めている。
画像:Wikipediaより