みずきりょう

<ライター「みずきりょう」のブログ> インド哲学・仏教関連の著作物、エクステリア(住まいの屋外空間)・ガーデン関係の著作物を随時連載していきます。 ご愛読いただければ幸いです。

2021年01月


「日本庭園と日本外構」:NO285

「横浜・三渓園」と言う庭園とは?


 
 明治時代の庭園を紹介中。
この項では、横浜市中区にある「三渓園」を取り上げます。

 

「三渓園」は17.5ヘクタールと言う広大な敷地を持つ庭園で、庭だけではなく庭内に17棟の日本建築物が配されています。また、現在は三渓園保勝会が運営を行い、有料一般開放されています。そして、この庭園は祖父である江戸末期~明治初期横浜の豪商・原善三郎が1868年に購入した土地に、孫の実業家・原富太郎(18681939年。茶人としても知られていた)が1906年(明治38年)に造ったものです。ただし、少し特殊な造り方で、各地の荒廃した寺院等の建造物を寄せ集め、それらを敷地内の各所に配して、全体を日本庭園化しました。従って、個人で造った庭園でありながら、:敷地が広大 17棟もの建造物(大多数は古い寺院などの日本建築物)がある :従って公園的な要素が多い・・・と言った特殊性を持っています。当初から、文化財保護と多くの人が集まる施設を意識して造られたのではないでしょうか。

 

「三渓園」は東側の外苑と西側の内苑に分かれ(案内図参照)、外苑は全敷地の3分の2程度を占め、池と公園的ガーデン空間が主体、内苑は建物が中心でそれを池とガーデンスペースで結ぶ・・・と言った様式になっています。従って、庭の散策・花見などを楽しみながら、かつ古い日本建造物を鑑賞して回ると言った、行楽の場ともなっています。

 

なお、主要な建造物は以下の通り。

「外苑」=鶴翔閣(横浜市指定有形文化財)、林洞庵、横笛庵、旧燈明寺三重塔(重要文化財)、旧燈明寺本堂(重要文化財)、旧東慶寺仏殿(重要文化財)、旧矢箆原家住宅(重要文化財)

 「内苑」=臨春閣(重要文化財)、白雲邸(横浜市指定有形文化財)、旧天端寺寿塔覆堂(重要文化財)、月華殿(重要文化財)、金毛窟、天授院(重要文化財)、聴秋閣(重要文化財)、春草廬(重要文化財)、蓮華院、御門(横浜市指定有形文化財)

 

一口アドバイス。

「実業家が文化財保護・庶民の散策の場を意識して造った庭園=三渓園?」

(みずき りょう)



285:原富三郎

原三渓(本名:原富三郎)



285:三渓園案内図

 三渓園案内図



285:三渓園大池

池から三重塔を望む



285:記念会館

記念館(外苑と内苑を結ぶ)



285:三重塔

  三重塔(外苑)



285:臨春閣

臨春閣(内苑)



285:聴秋閣

 聴秋閣(内苑)



Buddha-ism

第2改訂版

 

 「仏教」について語ってみたいと思います。閉塞状況の現代社会に最も必要な思

 考体系だと思うからです。本書は、特定の宗教を広めようとする主旨によるもので

 はありません。ただ、仏教のすばらしさが、あまりにも誤解を持って伝えられ、本当

 の魅力とは程遠いイメージが定着してしまっているからです。

 これほど「mottainai」ことはありません。出来るだけ客観性に富んだ視点で、分か

 りやすく「仏教の考え方」を伝えたいと思います。ぜひ目を通して見て下さい。

 

みずき りょう


 

第六章 

インドの「浄土系」と「密教系」グループ

 


 

NO―19 謎多き「インド密教」の世界


 


「仏教タントリズム(密教)」と関係の深い経典&概要④



「金剛頂経」①

 

続いて、「金剛頂経(こんごうちょうきょう)」について。

「金剛頂経」のサンスクリット名は「ヴァジュラシェーカラ・スートラ/タントラ」で、「ヴァジュラ」は「最も堅い物・ダイヤモンド・究極・金剛杵」と言った意味。「シェーカラ」は「最高峰・頂き」と言った意味。「スートラ」は「経典」、ここでの「タントラ」は「(金剛界)曼荼羅が描かれた布(織物)」と解釈して良いでしょう。つまり、「最高の教えが書かれた曼荼羅の意味を記した経典」と言う事。

ただし、「ヴァジュラ」はインドの神様名でもあり、日本の密教資料では「金剛杵(密教の法具で、元々は武器)」と記されている場合が多いのでが、その背景に<バラモン色 or ヒンドゥー色>を強く感じさせる単語でもあります。

 「金剛頂経」の成立年代は、前述のごとく650700年頃で、「大日経」と異なり、こちらはサンスクリット原典も存在します。

 我々が目にする「金剛頂経」とは、インド僧「アモーガヴァジュラ(不空705774年)」訳の三巻本を指します。そして、彼の生没年を見ても分かる通り、「大日経」同様に、「金剛頂経」は成立後極めて速く、チベット・中国・日本に伝わったことが分かります。もっとも、「金剛頂経」系の経典は、他にも多くの原典(インド・チベット経典)・複数の漢訳本があるとされ、専門家で無い限り、その全貌を把握するのは困難でしょう(正直、筆者にも詳細は分かりません)。

 そこで、「アモーガヴァジュラ(不空)」訳をベースにその内容に迫ってみます。

 まず提示すべきは、<「金剛頂経」には論理的記述が殆どない>と言う点。具体的には、「大日経」の<本編の第1品(巻)・入真言門住心>的部分が全くないと言う事です。「大日経」自体も論理的記述は冒頭部のみで少ないのですが、「金剛頂経」の場合はほぼゼロ。逆に、「金剛界曼荼羅」の描き方・儀式や祈祷の方法・それに伴う印の結び方や呪文などに関しては、詳しく説明されています。従って、<実用書・取扱説明書的経典>と言って良いでしょう。

 勿論、このようなことを書くと、専門家の方々からお𠮟りを受けるでしょう。<「金剛頂経」は密教最高峰の経典で、記述の行間に崇高な意味が隠されている(?)>などと。しかし、筆者にはどうしてもそれほど深い意味を秘めた経典とは思えません。


141:善無畏

141:「善無畏」。インドの僧。「大日経」を漢訳し中国に伝える。
画像:Wikipediaより




 


杉柾施工例①「myガーデン」
 
エクステリア専用国産木材「杉柾」<樹齢80年以上の杉材+赤身(芯材)+柾目引き>を使ったデッキの施工例(プラン・施工「myガーデン」)



赤杉施工例①「myガーデン」

エクステリア専用国産木材「赤杉」<樹齢80年以上の杉材+赤身(芯材)>を使った目隠しフェンスの施工例(プラン・施工「myガーデン」)



egg-2月の定例会 
無料体験参加者募集中!


<西日本地区>

 

*開催日時:2月10日 13:00~17:00

*開催場所:「浪速区民センター」 大阪市浪速区稲荷町(「JR難波駅」から徒歩10分)

 

注:コロナ問題の状況によっては<Zoomによるリモート併用型>となる場合もあり

 

 

<東日本地区>

 

*開催日時:2月25日(木) 13:00~17:00

*開催場所:「リフォームやました」 神奈川県厚木市上依知

 

注:コロナ問題で緊急事態宣言発令中の場合は<Zoomによるリモート形式>に切り替え(リモートの場合は、開催時間14:00~16:00)

 

上記「西日本地区定例会」「東日本地区定例会」、無料体験参加のお申込み・お問い合わせは先・・・左をクリック

 

 





「仏教タントリズム・資料編」



        みずきりょう著


         連載第179回


 

<第十三章> 
インドの歴史<
5001,200年頃>

 

 

 

56:北インドの動向


 

「ラージプート」と呼ばれた時代④



「パーラ王朝」とその特性①

 5001,200年頃の北インド史について検証中。これまでに、「ヴァルダナ王朝」「ラージプート」系の王朝にスポットをあてましたが、同時代のインド北部にはもう1つ絶対に無視できない強国が存在しました。それがこのコーナーで取り上げる「パーラ王朝」です。

 「パーラ王朝」は750年頃~1,162 or 1,174年まで存続した王朝で、首都は「パータリプトラ」または「ガウル」に置かれていました。特に、「パータリプトラ」は「マウリヤ王朝」「グプタ王朝」など「マガダ国」系の強国と切っても切れない関係にある大都市で、この点からも「パーラ王朝」の一端を垣間見ることが出来ます。

 「ハルシャ・ヴァルダナ王」が興した短命の「ヴァルダナ王朝」は645年頃に謀反により滅亡します。そして「ヴァルダナ王朝」の統治エリアは(主に「ベンガル」「ビハール」地方)は無政府状態に近い混乱期となります。加えて、北東部の「プラティハーラ王朝」や中部の「ラーシュトラクータ王朝」の侵攻もあり、まるで<捕食者による狩場>のような状況であったと伝えられています(このような当時の状況に対して、「マンスヤンヤーヤム=魚の法律=弱肉強食)」と言う呼称が使われた)。

 約100年後の750年頃、ようやく打開のための動きが見られるようになり、名士たちの選挙で「ゴーパーラ」(「パーラ王朝」初代王・在位750780年頃)と言う人物が王に選出されます。そして、少しずつ統治形態が定まり、「ゴーパーラ」の息子「ダルマパーラ」(在位780810年頃)が2代目王となった頃に「パーラ王朝」の基盤が固まった模様。

 この間にも、「ヴァルダナ王朝」の首都で同エリアの代表都市となっていた「カナウジ」を巡る攻防が、地元勢力・「ダルマパーラ王」・中部インドの強国「ラーシュトラクータ王朝」の間で続きますが、結局は「ダルマパーラ王」が勝利し、安定した政権を樹立。このようにして「パーラ王朝」は安定国の仲間入りを果たします。

 「ダルマパーラ王」はその後も統治エリアを拡大し、彼の存命中に「ベンガル」~「カナウジ」に至る強国となります。ただ、さらに版図を拡大する事は、「プラティハーラ王朝」

「ラーシュトラクータ王朝」などの強国が盾となり、戦い・講和等様々な攻防を繰り返しますが、実現出来ませんでした。しかし、「パーラ王朝」を強国と呼べる存在に育て、かつ北東インドを「マンスヤンヤーヤム(魚の法律=弱肉強食))」状況からだ脱却させた偉大な王であった事に変わりはありません。

 そして、第3代「デーヴァパーラ」(在位810850年頃)時代に「パーラ王朝」は最盛期を迎えます。彼は、父「ダルマパーラ王」が晩年の版図拡大策中に敗戦を経験したことを反省材料とし、まず地元(インド北東部)の足固めからスタート。それが一段落すると、「アッサム地方」と「オリッサ地方」北部へ侵攻し、さらに勢力を現在にネパールの一部にまで広げます。

 また、北西部の「プラティハーラ王朝」がやや弱体化するのを見て、その統治エリアの一部を奪い、「ビハール」~「ヴァーラーナシー」地区まで統治エリアを拡大し、前述のごとくこの頃が「パーラ王朝」の最盛期となります。 



パーラ系仏像

「パーラ王朝」時代の仏像 
画像:Wikipediaより




 

「日本庭園と日本外構」:NO284

網町三井倶楽部の和・洋庭園!



 小沢圭次郎と
7代・小川治兵衛の作品を紹介してきました。そして、両者はまったく別の性格を持った作庭家であることが分かりました。筆者は、小沢圭次郎のような視点を持ち小川治兵衛が作品作りを行っていれば、日本の造園界はもっと進歩し、より優れた作品を残すことが出来た。そう思えてなりません。この項からは、両者以外の明治時代の庭園を紹介します。ただし、和風に限定せず洋風庭園もその範疇に含めます。まずは、「綱町三井倶楽部」を取り上げます。

 

同建造物は、その名が示す通り三井家が造ったもので、島津氏に属する日向佐土原藩の江戸藩邸を後に10代・三井八郎右衛門高棟が1910年(明治43年)〜1913年(大正2年)にかけて造ったものです。従って、実際には明治終盤〜大正初期の作品と言うべきでしょう。設計・監修者はジョサイア・コンドル。所在地は、東京都港区三田2丁目(旧芝三田綱町)。ただし、私邸ではなく三井財閥の迎賓館として使用されました。そして、現在も一般公開はされておらず、複数の企業が加盟する会員制施設として使われています。

 

庭園部分は洋風庭園と日本庭園に分かれ(平面略図参照)れ、洋風部分は建物の設計と同じジョサイア・コンドルの作。他の同時代の洋風庭園作成実績から言って、ジョサイア・コンドルもまた明治の有力作庭家の一人に含めるべきかも知れません。同部分の庭園は噴水をメインとして構成され、平面幾何学式(フレンチ)的イメージの強い構成となっています。ただし、その向う側は日本庭園へと繋がり、建物前面のみの庭となっています。広大な日本庭園部を残したのは三井家の意向であったのでしょうか、それとも日本文化に傾倒していたジョサイア・コンドルの進言によるものであったのでしょうか。

 

日本庭園部分は全敷地の3分の2程度19,800㎡に達します。様式は池泉回遊式で他の部分と同様、周辺は鬱蒼とした樹林で覆われています。作庭者は集花園の柴田徳次郎。ただし、庭園の骨格は江戸時代からのもので、彼が近代的日本庭園に改修したものです。従って、この段階で洋館・洋風庭園とのバランスも加味した、現状に近い日本庭園になったと考えて良いでしょう。

 

日本庭園部分は、2つの池、水路を中心とした構成になっており、メインとなる西側の池には中ノ島・蓬莱岩・鳥帽子岩があり、東側の小さい池の名前は蓬莱池。このような構成を見ると、より古い日本庭園の形態が残り、庭の骨格は江戸時代のもので、それを周辺状況に合わせ柴田徳次郎が近代的なデザイン・機能に変えた。それが「綱町三井倶楽部」の日本庭園の実態と判断して良いでしょう。

 

一口アドバイス。

「江戸時代の庭園を洋風部分に合わせ変身。それが三井倶楽部の日本庭園!」

(みずき りょう)



284:平面略図

 平面略図:北側


284:平面略図②

平面略図:南側


284:三井倶楽部

綱町三井倶楽部


284:洋風庭園

 洋風庭園部


284:季節の花

陽春の頃


284:和風庭園パノラマ

日本庭園部パノラマ


284:鳥瞰写真

日本庭園部鳥瞰



284:池とその周辺

中ノ島に架かる石橋


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