Buddha-ism

2改訂版

 

 「仏教」について語ってみたいと思います。閉塞状況の現代社会に最も必要な思考体系だと思うからです。本書は、特定の宗教を広めようとする主旨によるものではありません。ただ、仏教のすばらしさが、あまりにも誤解を持って伝えられ、本当 の魅力とは程遠いイメージが定着してしまっているからです。

  これほど「mottainai」ことはありません。出来るだけ客観性に富んだ視点で、分かりやすく「仏教の考方」を伝えたいと思います。ぜひ目を通して見て下さい。

 

                      みずき りょう



第二章 「部派仏教」と「アビダルマ」

 

 

NO―6 釈迦没後の仏教とアビダルマの世界③


インドの歴史と、同時代仏教の変遷② 

この頃インドでは、国家体制に大きな変化が起きていました。「マガダ国」系で「マウリヤ王朝」(BC317年〜BC180年、インド初の統一王朝)の前の「ナンダ王朝」の初代王の母は「シュードラ(奴隷階級)」出身で、「カースト制度」自体に変化が見られるようになってきたからです。勿論、王と言う支配者だけではなく、都市の有力者・商人等のニューリッチにも下級カースト者が多く見られるようになっていました。

さらに、「マウリヤ王朝」を興した「チャンドラグプタ王」(在位BC317BC298年)もまた「シュードラ」出身者だと言われています(「仏教」では「クシャトリア(王・貴族・武士階級)」出身とするが、「シュードラ」出身説の方が正しい可能性が強い)。つまり、「マガダ国」系の国家(王)と言っても、この頃になると下級カースト者が台頭し、支配者にまで上り詰めるケースもあったと言う事。その一方で、厳然たる階級主義も生きており、世の中が二重構造(名目的地位と実質的地位の両立)になっていました。この点を見逃すべきではありません。

また、「マウリヤ王朝」3代目の王「アショーカ王」(在位BC268BC232年)は、「マウリヤ王朝」最盛期を築いただけではなく、「仏教」を保護したことでも有名。ただし、<真相は「仏教」だけではなく、当時の有力新思想のいくつかを保護し、それらの論争等も盛んにおこなわれた>。そんな時代であったと考えるべきです。

だからこそ、「仏教」自体も、内部での優位性に加え、ライバルとの競争に勝つ残るため、以前以上の理論武装が行われるようになったと見るべきでしょう。このようにして成立したのが「部派仏教」と言われるもので、ある意味煩雑すぎる思考形態が確立された要因として、時代背景を無視すべきではない。少なくとも筆者はそう考えています。

また、以前の「仏教」は、お釈迦様の十大弟子などを中心に布教活動が活発化したものの、そのエリアもガンジス河の一部とその支流のネーランジャラー川の流域あたりに限定されていました。しかし、BC100〜紀元前後になると、次第にインダス川流域、インド中南部などへ布教の範囲を拡大していきます。ちなみに、この後登場する「部派仏教」の代表的僧団「説一切有部(せついっさいうぶ)」もインド南部のマトゥーラに起源を発し、同北部のガンジス河とインダス川の中間に位置するカシュミールで発展を遂げたと言われています。要するに、お釈迦様の時代の舞台より大幅に広くなったと言う事。

時間性と新しい地域の特性が加わり、仏教の変化をより大きくしていったと考えて良いでしょう。

やがて、「部派仏教」は保守主流派となる「上座部」とそれを批判する「大衆部」にわかれ、両者の間に考え方だけではなく、布教の仕方にも差を生じるようになります。そして、同じ頃「大乗仏教」の元となる考え方、集団も発生したと考えられます。要するに「大衆部」の一部の人達、僧団に属さない市井の仏教帰依者などが、閉鎖的な「上座部」を批判し、「大乗仏教」の元を作ったと考えられていると言う事。ただし、「大衆部」と「大乗仏教」は無関係で、あくまでも市井の仏教帰依者(在家仏教信者)の中から「大乗仏教」は生まれたとする説もあります。

ちょうど、鎌倉仏教の創始者たちが、比叡山などを後にし、野にくだり新しい仏教を打ち立てたのと、似たような動きであったのかも知れません。

やがて隆盛を誇った「マウリヤ王朝」も、BC180年に臣下による王の暗殺により滅亡することになります。


46:チャンドラグプタ


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:「チャンドラグプタ王」の像・・・インド初の統一王朝「マウリヤ王朝」の初代王。「シュードラ」出身者であったと言う説が有力 

画像:Wikipediaより


47:アショーカ王

46:「アショーカ王」のレリーフ・・・「マウリヤ王朝」3代目の王で、同王朝の最盛期を築く。また「仏教」の保護政策を取ったことでも有名。
画像:Wikipediaより