「日本庭園と日本外構」:
NO256

作庭書「築山庭造伝・後篇下」②!


「築山庭造伝・後篇下」
・・・秋里離島著 1828年の作

 

注意事項:「築山庭造伝・後篇」に関しては、他の作庭書以上に図面・イラストが多用されていると推定されるが、残念ながら中谷ゼミ資料に同添付はない。

 

3:東観音寺の書院庭園に関する解説

東観音寺(トウカンノンジ=愛知県豊橋市にある、臨済宗妙心寺派の寺院。江戸時代には徳川家の庇護を受けていた)の庭園は、慶長時代(15961615年)に本田某(おそらく、徳川家重臣・本田正信orその子本田正純の事)が作ったと言われている。しかし、その後現在の地に引っ越し、元通りに復元した。引っ越しの詳しい事情は世間に伝わっている通りとしておく。

 そして、同寺の書院に「御書院」と言う丁寧な称号を用いるのは、御神君(没後神格化された徳川家康の呼称。東照大権現とも呼ばれた)様が度々訪れ、余暇を楽しまれたからだ。そこに掲げられた額には「蓬州館」と書かれており、朝鮮人の筆による。一方、庭は天竺(昔のインド)の険しい山を表している。だから、その山の状況を連想させる、明星石・仏垂石が設置されている。また、牛が暴走している様子を著した石もある。

 

さらには、大渓谷に架かった橋もある。その橋のある谷の入り口付近には、仏教伝説に基づく石組(おそらくは、滝傍の不動三尊等を著した石組)も見られる。ここに提示した図を参考にして、その状況をイメージしなさい。殺侯の松(?)・紐桜(?)と言った名木もあり、この庭の事を蓬莱庭とも呼ぶ。奥行18m10間)×間口3.6m強(2間強=狭すぎ。20間の間違いでは?)の庭である。

 

4:(東観音寺)方丈大庭園に関する事

同寺の方丈庭園は、約奥行13m7間)×間口23m13間)と言うサイズで、3方向を筋塀(定規筋と呼ばれる、白い水平ラインが引かれた土塀)で囲まれている。そして、正面2ヶ所に門がある。この、右側の門を雲閣門と呼ぶ。額が掲げられ雲閣と書かれているからだ。この文字は西行法師(平安末期の僧=11181190年)が草書で書いた。左側の門は仏聴門と呼ぶ。仏聴法門と書かれているからだ。この文字は隠元禅師(中国から日本に来た禅僧=15921673年)が書いた。そう、この方丈の門には2つの注目すべき額が掲げられている。素晴らしい額である。同方丈の庭は、享和年間(18011804年)まで、作庭当初の状況をよく伝えていた。そのための管理も厳重に行われて来た。住職はこのように述べていた。

仏法をベースとして同書院の庭は作られている。ただし、既に説明したとおりであり、これ以上の解説は控える。出来れば、先人が伝えようとした、仏の教えを知った上で、庭が伝えようとしている意味を考えなさい。

世間に伝わる面白いエピソードによると、大きな石組のある庭を、黙とう庭と呼ぶ。なぜなら、大蛇上人(おそらく龍樹=ナーガルジュナの事。AD100200年頃に活躍したインドの僧。空の論理を説いた大哲学者)が山に入り、大きな石の傍で仏の教えを説いていた。この時、巨大な岩にも上人の説法が通じ、全ての石がその言葉に聞き入った。だからこそ、その石を同所の状況に合わせて庭に設置するようになった。そして、庭の大きな石を黙とう石と言い、そのような石が設置されている庭を黙とう庭と呼ぶようになった。

 

一口アドバイス。

「東観音寺庭園の解説。良く分かるような、さっぱり分からないような・・・」

(みずき りょう)



256:東観音寺本堂

東観音寺本堂



256:龍樹像

龍樹像:頭に龍or蛇(ナーガ)を乗せているのが特徴