「日本庭園と日本外構」:NO258
作庭書「築山庭造伝・後篇下」④!
「築山庭造伝・後篇下」・・・秋里離島著 1828年の作
注意事項:「築山庭造伝・後篇」に関しては、他の作庭書以上に図面・イラストが多用されていると推定されるが、残念ながら中谷ゼミ資料に同添付はない。
6:小松原山(山号)東観音寺の宝物
*天平5年(733年)に天皇からのお褒めの言葉(叡感)を頂いた。その書を毎年1月18日の寅の刻に、馬頭観音像に備え、仏法が広く伝わることを願い(法楽)これを読み上げる。
*仏像を作った木(御衣木。ここでは馬頭観音を彫った木と言う事か?)で堂を作っている。同寺の素晴らしい財宝だ。
*能面十二品。得若・春日・由普の作品で、鎌倉の鶴岡八幡宮(源頼朝ゆかりの神社)でこの面を付けて度々能が奉納されたと言う貴重なものだ。その後、この能面が使われたことは無く、やがて東観音寺に奉納された。奉行の梶原平(=梶原景時・鎌倉時代の御家人)が参拝したときに黄金二千金と一緒に奉納したと言う記録文が一通残されている。それらは、後に箱に収められて、同寺の至宝となった。その他、4体の観音像も奉納され、能面12品と合わせ、16個の宝物となった。
*西行上人が所持していた悟りへの道を示した巻物一巻
*御製札の本書。そこには、以下のようなことが書かれている。
この寺内で固く禁じられている事。寺内の樹木を絶対に伐採してはならないと言う記述。寺内では狩猟をしてはならないと言う記述。そして、禁を犯した者は即刻手打(死刑)か寺からの追放となると言う記述。この御制札は慶長10年(1606年)に徳川家康公の名で作成されたものである。
7:遠州・浜松にある鴨江寺の庭に関する解説
鴨江寺(行基ゆかりの寺。42代・文武天皇<在位683~707年>勅願により創建。徳川家康により再建。遠州高野山別格本山とも称されている)は大寺院である。ただし、詳細は東海道名所図会(江戸時代後期に表わされた、絵図が多数添付された名所案内書)に紹介されているので省略する。
鴨江寺本堂の庭園は幽霊坊(詳細不明?)が作ったと言う記録がある。伝承によると幽霊坊は遠州国で禅宗の一派を立て奥山寺(詳細不明?)で活動していたとの事。同寺の塔頭に住んでいた。彼の心は優美で賢人でもあり、修業も熱心に行った。だが、全ての修行を終えると同寺を後にした。だから、彼の住んでいた塔頭に寄る僧があっても、その後の彼の行方を知ることが出来ず、仕方なく彼の葬儀が執り行われた。だから、行方不明後の彼の事を幽霊坊と呼ぶようになった。
塔頭を後にした後の幽霊坊は、作庭家となったと伝えられており、近郊で様々な庭を作ると言う生涯を送った。そして、鴨江寺の庭園は幽霊坊最大の作品となった。
鴨長寺庭園の池に架けられた橋を渡月橋と呼ぶ。待合用の建物は聴雨軒と言う。茶室は蟹眼屈と言う。山上の亭は望難屋と言う。そして、望難屋から西南方向を望むと、遠州灘の前景を眼下に観ることができる。その海には1つの島さえなく、満々とした海が広がっており、少し霞がかかった時には、海と空の境目さえ分からない。
鴨江寺は、無限に広がる慈悲で人々を救済し、大願を成就させてくれると言われている。だから、参拝者が絶えることが無い。寺への道筋には晴れ晴れとした人々の心が満ち溢れ、吹き抜ける松風は爽やかで、遠州と言う国の素晴らしさを象徴する存在にもなっている。
一口アドバイス。
「遠州の古寺を2か所紹介。ただし、現在に伝わる本格的庭園はなし?」
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