Buddha-ism

第2改訂版

 

 「仏教」について語ってみたいと思います。閉塞状況の現代社会に最も必要な思

 考体系だと思うからです。本書は、特定の宗教を広めようとする主旨によるもので

 はありません。ただ、仏教のすばらしさが、あまりにも誤解を持って伝えられ、本当

 の魅力とは程遠いイメージが定着してしまっているからです。

 これほど「mottainai」ことはありません。出来るだけ客観性に富んだ視点で、分か

 りやすく「仏教の考え方」を伝えたいと思います。ぜひ目を通して見て下さい。

 

みずき りょう


 

第六章 

インドの「浄土系」と「密教系」グループ

 


 

NO―19 謎多き「インド密教」の世界



 

「仏教タントリズム(密教)」と言う個別集団の登場とその推移①

 

以上からも分かる通り、「仏教タントリズム」は特定宗派限定ではなく、仏教全体(特に大乗仏教)に影響を及ぼしていたと言う事。ただし、「仏教」内の動きだけではなく、インドの歴史を加味すると別の局面が見えてきます。300400年頃になると、「バラモン教」の大衆化が進み、「ヒンドゥー教」の骨格がほぼ完成。それと同時に、信者が急速に増え始め、「グプタ王朝」(320550年頃)時代には爆発的に増加したと考えられます。それに呼応するかのように、「ヒンドゥー教」重視の方針を打ち出し(ただしこの段階では、「仏教」等もその価値が認められ、弾圧されるようなことはなかった)、この時代にその後の<「仏教」受難時代>の種がまかれたとも言えるからです。

さらに時代が下ると、少なくともインド中南部では「ヒンドゥー教」優勢傾向が急速に強まり、そのような外因が「仏教タントリズム」台頭の引き金となったという事。つまり、この頃から、それ以前とは異なり<「仏教タントリズム」は「ヒンドゥー教」対抗手段>としてより意識的かつ顕著な動きを見せ始めます。

年代表記すれば、400年~600年頃になると「仏教」内でも「タントリズム」的活動が活発化。ただし、この段階は<前期の「仏教タントリズム」時代>と呼ばれ、現世利益を求めた小集団が祈祷などを盛んに行うようになった・・・と言った限定的活動に留まっていたと推定されます。「タントリズム」と切り離せない性的側面を見ても、象徴的な儀式に留まっていました。

ところが600年代になると、「ヒンドゥー教」への対抗意識から、理論的対抗措置が取られるようになります。その一例として、<仏教学の一大拠点「ナーランダ」のような主要僧院でも、「仏教タントリズム」系の活動も盛んに行われるようになった>と言った話も伝っています。

僧院で本格的な「仏教タントリズム」の活動が始まったという事は、専門的理論付けも行われたという事でもあります。具体的には、600650年頃に編纂された「大日経」・650700年頃に編纂された「金剛頂経」の2経典がその根拠となります。「大日経」は「胎蔵界曼荼羅」・「金剛頂経」は「金剛界曼荼羅」と密接な関係にあり、両曼荼羅が「仏教タントリズム」の根幹をなす存在となったのも同時代と見て良いでしょう。そして、この600850年頃までを<中期の「仏教タントリズム」時代>と呼びます。

しかし、「仏教タントリズム」の理論付けは新たな課題も生み出します。<僧侶だけの専門世界への埋没>と言うものです。思想面にせよ儀式形式にせよ、極めて専門的な知識が必要になり、大衆から離れていったという次第。従って、「ヒンドゥー教」への対抗力と言った面では、(民衆パワーを失うことにより)むしろパワーダウンしたと見られます。

その反作用として、中期の後半(800年代後半)になると、反「ヒンドゥー教」色が濃くなり、「降三世明王トライローキヤ・ヴィジャヤ)」「大黒天(マハーカーラ)」など対抗神として起用されます。また、もう少し時代が下るとインド北部では「イスラム勢力」が「仏教」を脅かすようになり、その対抗神&曼荼羅として登場するのが「ルドラ・チャクリン(転輪聖王)」と「時輪曼荼羅」です。

つまり中期と呼ばれる時代に、仏教が単に「タントリズム」を取り入れるだけではなく、それを軸とした理論化祖進めた背景には、中・南部の「ヒンドゥー教」隆盛・北部の「イスラム教」進行と言う外圧の影響が大きかったと考えられます。



133:降三世明王

133:「降三世明王トライローキヤ・ヴィジャヤ)
画像:Wikipediaより



134:大黒天

134:「大黒天(マハーカーラ)」
画像:Wikipediaより

「降三世明王」「大黒天」共に「ヒンドゥー教」の対抗神として重要視される。