「仏教タントリズム・資料編」



        みずきりょう著


         連載第175回


 

<第十三章> 
インドの歴史<
5001,200年頃>

 

 
 前項で提示した通り、<インドの「仏教タントリズム」とは何か>についての検証を試みると、「ヒンドゥー教」を始めとする、周囲の状況と切っても切れぬ関係にあったことが分かります。つまり、<同時代のインド史を知らずして「仏教タントリズム」は語れない>と言う事になります。だからこそ、この項では<
5001,200年頃のインド史>について改めてその動向を探っておく事にします。

 具体的には、<第十一章> インドの歴史<BC300AD500年頃>・54:「マウリヤ王朝」後のインドで「グプタ王朝」時代までは語り終えましたので、同王朝滅亡後の動向を追っていきます。

 

 

56:北インドの動向

 

「ヴァルダナ王朝」と「ハルシャ・ヴァルダナ王」

 


 隆盛を誇った「グプタ王朝」も6世紀中盤に中央アジアの民「エフタル族(人)」のインド侵入により崩壊。その後は、50年以上に渡り主要な王朝が存在しないという分裂時代となります。このような状況に終止符を打つのが600年代初頭に現れた「ヴァルナ王朝」。

 同王朝の初代王が有名な「ハルシャ・ヴァルダナ(戒日王)」(在位606647年頃)で、首都を北インドの「カナウジ」と言う都市に置きます。そしてこの街は以後同エリアの中心的存在として栄えます。

 「ヴァルダナ王朝」で最も注目すべき点は、<「ヒンドゥー教」を国教としながらも、「仏教」など他の思想・宗教も保護した>と言う点。つまり、途絶えていた「グプタ王朝」の政策を復活させたという点にあります。

 当然、「仏教」にも再び追い風が吹き始めたわけで、そのような影響もあったのでしょう、同王朝時代に唐の「玄奘三蔵」が就学のため訪れます。その滞在期間は629645年の16年間と伝えられています。また、「ヴァルダナ王朝」と「唐」との間には国交もあった模様で、641年には「ハルシャ・ヴァルダナ」の派遣した施設が「唐」の「太宗(李世民)」に謁見。2年後の643年には「唐」の答礼使「王玄策」が「ハルシャ・ヴァルダナ」の元に到着したという記録が残されています。ただ、そのような交流に「玄奘三蔵」が直接関わっていたか否かは不明。

 このようなな、「ハルシャ・ヴァルダナ」の文化や人の往来を大切にする政策は、国内外の評価も高かったとされています。従って、「ヴァルダナ王朝」時代は首都「カナウジ」を始め多くの都市が栄え、平穏で豊かな時代でもあありました。

 しかし、彼は後継者を残さず没します。すると、臣下の「アラナシュ(阿羅那順)」が王位を簒奪。彼は丁度「カナウジ」に留まっていた「唐」の「王玄策」を捉えます。しかし、これが周辺国の反感を買い、「吐藩」(600年代初頭~850年頃まで存在したと言われるチベット内の国家)などの侵攻により救い出されます。この結果、「アラナシュ」は「唐」に連行され、事実上謀反は短期間で失敗と言う結果となります。

 問題は、この失敗がインド北部全体に影響を及ぼし、以後短命国家の乱立時代となり、政情不安な状態が続きます。しかも、「仏教」を保護する国家も殆どなくなり、再び活況を呈する事はありませんでした。加えて、900年代後半には「イスラム勢力」の進出が強まり、ついに「仏教」はインドから姿を消します。

 「仏教」側から同時代の歴史を見ると、「グプタ王朝」期に前期の「仏教タントリズム」が表れ、「ヴァルダナ王朝」期~次世代にかけ中期の「仏教タントリズム」期に突入したという事。同時にそれは、衰退期へと大きく足を踏み入れた転機の時代でもあったという事です。

 補足するなら、「玄奘三蔵」は「唯識派」主体に学んでおり、「仏教タントリズム」に関しては、殆ど中国に伝えていません。彼のインド滞在時期と照らし合わせても、「仏教」衰退期、あるいは「仏教タントリズム」が本格的に台頭する少し前であったからでしょう。



209:ハルシャヴァルダナの銀貨



「ハルシャ・ヴァルダナ王」の顔が刻印された銀貨 
画像:Wikipediaより