「日本庭園と日本外構」:NO283

岩崎家が残した小川治兵衛作品とは?



 小川治兵衛作品の最後として「旧岩崎家鳥居坂別邸」を紹介します。
と言っても、知らない人が多いと思いますが、これは現在「国際文化会館」となっているからです。

 

「旧岩崎家鳥居坂別邸」は東京都港区六本木5丁目、と言うより麻布鳥居坂にありました。同地は元々多度津藩の江戸屋敷で、その後井上薫、岩崎弥太郎などへと所有が移っています。そして、1930年(昭和5年)に岩崎小弥太が7代・小川治兵衛に依頼し庭園を造りました。従って、同庭園は植治作品と言っても昭和初期のもので、同時に彼の最晩年の作品と言う事に成ります(昭和に造られた日本庭園であるが、小川治兵衛作品と言う事で、このコーナーに収録)。

 

全体構成は他の作品同様、池泉回遊式。ただし、安土・桃山時代〜江戸初期の庭園を意識して造られた模様で、豪壮な石組なども見られます。この点では長浜の「慶雲館」などと共通点があり、7代・植治は、人生の後半においては同時代にノスタルジックなものを感じるようになっていたのかもしれません。ただし、同庭園に対する公開資料は乏しく、当初の詳しい作庭ポイントを知ることは困難。ただ、基本構成は現在とほぼ同じと考えて良いでしょう。また、都心の庭園と言う事情もあり、周辺を鬱蒼とし樹林で覆っています。

 

しかし、同敷地全体は現在「国際文化会館」として使用されています。同会館は1951年にアメリカのロックフェラー財団が資金提供し造られました。そして1955年には日本建築学会賞を受賞するなど、戦後日本を代表する建築物でもあります。なお、庭園も2005年に国の名勝に指定されています。

 

7代・小川治兵衛は他にも、「八坂神社神苑(京都市)」「浮月楼庭園(静岡市・徳川慶喜屋敷跡)」「仁和寺(京都市)」「大徳寺(京都市)」「ウェスティンホテル(京都市)」など多数の作庭・改修に携わるなど、多くの足跡を残しました。その意味では、間違いなく明治以降で最高峰の作庭家です。

 

しかし、小沢圭次郎(あるいは、橘俊綱・夢窓疎石などの偉大な作庭家)とは異なり、全体的な敷地・開発計画にタッチした形跡は見られません。日本庭園の作庭者であれば当然との見方も出来ますが、筆者はこの点に7代・小川治兵衛の一つの限界を感じざるを得ません。なぜなら、世界的造園家は敷地計画にもタッチしているからです。また、敷地計画に関しては建築家より造園家の方が優れていると言う側面もあるからです。江戸時代以降、庭園の世界は閉鎖性が目立つようになります。そして、小川治兵衛もまたその閉鎖社会でしか活躍できなかった。そう感じられてなりません。

 

一方、小川治兵衛の作品を見ると、確かに江戸時代以前のものと比較すると、バランス感覚に優れています。構成・デザインと言う面では間違いなくトップクラスの作庭家です。しかし、ほぼ全て池泉式の庭園で、ある意味没個性的でもあります。前半と後半を比較すると、後半の作品は多少バラエティーに富んだデザインも見られます。しかし、精神性・斬新性・個性と言った意味では何か物足りなさを感じます。筆者が素人であるための評価かもしれません。しかし、その保守性が現代の日本の造園業界にまで、ある意味のマイナス要因を残したと考えています。次項からは、小沢圭次郎・小川治兵衛作品以外の明治時代の庭園にスポットをあてます。

 

一口アドバイス。

7代・小川治兵衛の素晴らしさと限界点。それが象徴する造園社会とは?」

(みずき りょう)



283:国際文化会館

国際文化会館



283:建物と庭園

建物と庭園



283:庭の鳥瞰

鳥瞰写真・他



283:池とその周辺

池とその周辺



283:石組

豪壮な石組



283:園路

周辺の鬱蒼とした樹林



283:園路②

園路