この<「チベット仏教」とタントリズム>はみずきりょう作品の中から「チベット仏教」に関する部分を集め、編集・一部加筆・修正したものです。


「チベット仏教」とタントリズム 連載第7回


 

チベットの歴史⑥



 

1,5001,650年頃のチベット>


 チベット中心部(ツァン地方)の無政府状態が5060年程続いた後、1,565年には「リンプン家」の行政官であった「ツェテン・ドルジェ」と言う人物が統治権を握るようになり、ようやく新しい政権が誕生。同政権には、「ツァンパ政権」「ニャクバ政権」「シンシャク政権」、それに中国では「蔵巴汗」など様々な呼称があり混乱を招きやすいのですが、「ツェテン・ドルジェ」が同政権の初代の「ツァントェ王」となり、以後同一族が支配権を握ります。

 1,600年代に入ると、さらに勢力圏を拡大。しかしその後、民族争いに敗れ滅びるなど、戦乱が続き再び混乱状態に至ります。つまり、一度「ツェテン・ドルジェ」により収まった争いも、短期間で元のような状態に戻り、前半~後半を合わせると150年もの間、安定政権不在の状態が続いたわけです。

 このような状態にようやく終止符が打たれたのは、「ダライ・ラマ5世」(1,6171,687年)が宗教・政治の実権を握るようになってからの事で、具体的には1,600年代中盤以降と言う事になります。

 ただここで、突然「ダライ・ラマ」の名前が出てきても、おそらく大半の方は戸惑うでことになるでしょう。「ダライ・ラマ」と言う固有名詞は殆どの人が知っており、チベットとチベット仏教に取っては無くてはならない存在である事は理解できるでしょう。

 ただし、チベットの歴史と「ダライ・ラマ」はどのような形でリンクし、なぜそれが1,600年代以降の政権と切っても切れない関係にあるのか、他の国とかなりシステムが異なる為、基礎知識がないと分かりにくいからです。従って、ここで簡単に「ダライ・ラマ」とは何かを概要だけを確認(後項で詳述)しておきます。

 まず、「ダライ・ラマ」と言う呼称ですが、「ダライ」はモンゴル語で「大きな海」と言う意味。「ラマ」はチベット語で「僧・師・上師」と言う意味。従って、「ダライ・ラマ」=<大きな海のように、尊敬すべき僧(師)>と言ったところ。

 そして、この呼称は1,300年代頃から「ゲルク派」の間で使われるようになり、同派特定の高位の僧を「ダライ・ラマ」と呼ぶようになったと言う次第です。

 問題は、「ダライ・ラマ」が5代目(5世)の頃、つまり1,600年代中盤頃になると政権の統率者も兼務するようになったと言う点。政治と宗教(仏教)の一体化はチベット特有のシステム。このため、ここまでの歴史を見てもわかる通り、<宗派争い=政権争い>となり、安定期・混乱期に関わらず宗派の長or 家どうしが絶えず激突してきました。

 そして、「ダライ・ラマ」制度もまたこのような社会習慣の延長上に確立されたと見て良いでしょう。

 いずれにせよ、「ダライ・ラマ5世」が成人し力を発揮するようになった、1,600年代中盤になり、ようやく他派を圧するようになり、安定政権がチベットに確立されたと言う事です。当然の事ながら、宗派・それを運営する家も「ゲルク派」が他を圧するようになります。

 この「ゲルク派」隆盛のベースとなったのが「転生活仏」と言う制度で、これまでにない長期政権を確立。そして、中国によるチベット侵攻・弾圧など外圧は別にして、チベット内部では現在までそのシステムが維持されることになります。


325:ポタラ宮

「ポタラ宮」・・・「ダライ・ラマ5世」以降は「ポタラ宮」が居所であり政務の拠点となった。

画像:Wikipediaより