みずきりょう

<ライター「みずきりょう」のブログ> インド哲学・仏教関連の著作物、エクステリア(住まいの屋外空間)・ガーデン関係の著作物を随時連載していきます。 ご愛読いただければ幸いです。

カテゴリ: みずきりょう著「Buddha-ism」


 

「日本庭園と日本外構」:NO301

100%負けを隠蔽しようとした理由?

 


 日本は中国大陸へ無差別侵略を進めます。さらに、その戦線は東南アジアの一部にまで拡大。それだけでも狂気の沙汰としか言いようがありません。にもかかわらず、目先の利益だけを考え、
1940年(昭和15年)には、ヒトラーのナチスドイツ・ムッソリーニのイタリアと三国同盟を結びます。これにより、アメリカ・イギリスを核とする連合国側と決定的対立状況に至ります。当然のことで、連合国側の圧力によりこのような事態に至ったのではなく、自らがその道を選んだのです。

 

一方、第二次世界大戦(1940年)に突入し、劣勢に立たされていたイギリスのチャーチルや、国内の混乱が続く中国・国民党の蒋介石らはアメリカに参戦を要請。このような状況下で、日本もアメリカとの交渉を行っていましたが1941年秋に決裂。中国大陸での行動、三国同盟と言った動きを見れば当然の事です。

 

結果、1941年(昭和16年)128日。あの有名な「トラ・トラ・トラ」。真珠湾攻撃を仕掛けます。つまり、日本はまたも宣戦布告なしの戦争を仕掛け、これにより「太平洋戦争」勃発となります。そして、1945年(昭和20年)815日の敗戦に至るまで、約4年間にさらなる泥沼の戦い(「満州事変」「日中戦争」を加えると約14年間)を続けます。ただ、「太平洋戦争」については比較的よく知られているうえ、部分的には教科書等でも取り上げられていますので、細かな経緯は割愛します。

 

ここで再確認しておくべき事実が2つあります。1つは、「満州事変」「日中戦争」だけでも重荷であり、これに「太平洋戦争」を加えた時点で、負けることは誰が見ても明らかであったと言う事。2つ目は、14年間の間に何度も戦争を終結させるチャンスがあったと言う事。にもかかわらず、軍部は負けると言う事実を認めようとせず、かつ戦争終結交渉をする事も拒否しました。それには様々な理由が考えられます。しかし、「満州事変」勃発前であれば別ですが、それ以降は程度の差はあれ「日本の負け」であることに変わりはありません。となれば、東條英機を初めとする軍幹部が粛清されることは明らか。終盤に至っては死刑の可能性が強くなります。それを恐れ保身のため戦争終結交渉を拒否し続けた。少なくとも筆者はそう考えています。

 

最後に1945815日の敗戦について。同日に日本は無条件降伏(日本に無条件降伏を求めた「ポツダム宣言」の受諾)します。それは、昭和天皇の玉音放送により国民に知らされたことは周知の通り。ただ、この時点においても軍幹部は妨害行為を画策しています。それを振り切って昭和天皇が一部側近とともに無条件降伏を実現した。これが事実です。明治以降、天皇が実行した唯一の重要行為と言えるかもしれません。勿論、戦争の幕引きをしたからと言って、天皇の戦争責任が消えたわけではありません。傀儡政権であってもその名の元に暴挙が行われ続けたことは事実であるからです。しかし、アメリカや世界の列強国が下した天皇に対する決断は、比較的穏やかなものであった。これも、事実であることに代わりありません。

その一方で、軍幹部が行った行為は100%間違いであった。そして、「東京裁判」によりA級戦犯を初めとする、戦争責任者の各種刑罰が決定し実行されます。しかし、戦争責任と言う面でも、重要な事実が隠されています。諸外国は刑罰を決め実行しましたが、日本政府・国民自体は自分自身の責任所在確認を現在に至っても行っていない言う事実です。この点がドイツと全く異なります。それが厳しいものか寛大なものかは別として、なぜ当事者としての判断を下そうとしないのでしょうか。その判断を示さないからこそ、戦後の闇が現在に引き継がれ、その一方で根拠に乏しい憲法解釈論・自衛隊論等がマスコミ紙面を賑わすことに成るわけです。「満州事変」「日中戦争」「太平洋戦争」は一体何であったのか。誰と誰にどのような責任があったか。これを明確にしなくては、平和・自衛の具体的根拠を示すことなどできません。

 

日本は、大失態を犯しました。しかし、失態の最大課題「満州事変」「日中戦争」を白日の下にさらけ出さない限り、繰り返す可能性が残ります(事実そのような兆候も見られる)。だからこそ、日本人はこの2つの戦争+「太平洋戦争」を知らなかったでは済まされません。その一方で、少なくとも朝鮮半島と中国の人達は、若者を含め大半が「満州事変」「日中戦争」+「太平洋戦争」のことを知っています。このような矛盾が許されるはずがありません。

 だからこそ、「日本庭園と日本外構」言う別目的の著書でありながら、特に「満州事変」「日中戦争」にこだわりました。次項からは、テーマを本題に戻し、大正・昭和の作庭家と庭園・外構について考えて行きます。

 

一口アドバイス。

「日本人全員が知る義務を持つ。それが、満州事変日中戦争!」

(みずき りょう)


301:大東亜会議

日本の茶番劇「大東亜会議」(1943年)



301:ポツダム宣言

日本のポツダム宣言受諾を発表するトルーマン大統領


 

「日本庭園と日本外構」:NO223

作庭書「築山庭造伝・前篇上」⑬!

 


 「築山庭造伝・前篇上」(最終回)
・・・北村援琴・秋里離島共著 1735年の作

 

58:池や泉の魚を鼬(イタチ)に取られない方法

池や泉で飼っている魚をイタチに取られないようにするには、コショウを包んだものを四方に置く。また、ハリネズミの皮をガラスの徳利に入れ池や泉の上に吊るす。こうすればイタチが来ない。

 

補足事項:イタチはコショウを嫌うという事? ハリネズミはイタチの天敵でその皮を見て逃げるという事? 正確な理由は不明。

 

59:竹を斑模様にする方法。

フルイにかけた細かな砂185g(50匁)、ザクロ石(碌礬)を粉にしたもの112g(30匁)、タンバン(胆礬)石75g(20匁)、石灰19g(5匁)を混ぜ水で撹拌して、竹に模様を付けたり、斑にしたい部分に塗る。そうして、塗った部分が乾くと模様が浮き出る。

 

補足事項:ザクロ石=ケイ素、タンバン=硫酸塩、石灰=酸素と化合したカルシウム類(炭酸カルシウム、等)。従って、これらの成分を混ぜ竹に塗ると変色(あるいは脱色)すると言うことであろう。

 

60:竹を植える適切な季節

竹を植えるのは620日が良い。そうすれば必ず根づく(梅雨の前半が良いと言う事であろう)。

 

61:接木に使う薬

接木をする時には、青葉のかつ香(香木の事と考えられるが詳細不明)3.75g(1匁)、蓮肉1.9g(0.5匁)、高麗人参0.19g(5分)を水に溶かす。そして接穂に塗る。こうすると活着率が高くなる。また、接穂を着けた接木苗の根に塗ると根おろしが良くなり成長を促進する(根拠、効果のほどは不明)。

 

62:花を早く開花させる方法

花を早く開花させるには、馬の糞を水に浸してそれを根元にそそぐ。すると、通常は34日かかるものが翌日に咲く(根拠、効果のほどは不明)。

 

63:果樹の実のりを良くする方法

社日(土地神様を祭る日。一般的には春と秋)に果樹の下を突けば実が良く成る。また、これまで実が成らなかった果樹も同じことをすると、実を結ぶことがある(土地神様のご利益と言う迷信であろう)。

 

64:松の移植法

松を植えかえる場合は、春の社日の前日が良い。この日に根に土をしっかりと付けて移植すれば、成功率100%(63項同様に迷信であろうが、同時期が移植の適期でもあるとでもあろう)。

 

65:諸々の樹木の幹を太くする方法

諸々の樹木を太く育てるには、幹に浅く縦に切れ目を入れておく事。そうすれば太くなる。

 

66:諸々の樹木を毛虫から守る方法

諸々の樹木に毛虫が付かないようにするには、スルメの頭の部分のヒラヒラを筆の鞘に入れて、樹木にいくつも吊り下げておくと良い。そうすると毛虫が付かない(効果にははなはだ疑問)。

 

67:池でカエルを飼う方法

山城井出(現在の京都市左京区大原井出町)のカエルは鳴き声に品がありやかましくない。しかし、その他多くの地区のカエルの鳴き声はやかましい。だから、井出のカエルを一匹捉えて池で飼うカエルに加えておくと、他のカエルが鳴かなくなり静かになる(効果にははなはだ疑問)。

 

68:庭のサイズ・地形に関する図

庭は広い狭いの差がある。だからこの図(ただし、中谷ゼミ資料に図の添付は無い)を見て、山水(庭)のゾーニングを研究しなさい。また、庭作りにはそれぞれの(真行草)違いがありあり、山も島も無い事さえある。従って、石組だけで庭を作る時もこの図を参考にしなさい。また、石をどの程度横に長く設置すれば良いか、どの程度深く掘り下げ設置すれば良いかも、この図を見て状況判断しなさい。

 

69:石灯篭に関する図

石灯篭から手水鉢に至るまで、使う石は大和国の御影石が最上級品である。2番目が丹波の石。3番目が京都の白川石。4番目が滋賀県の木戸石。その他の自然石の灯篭の傘や手水鉢は、奇妙な特性を持つものでなくてはならない。例えば、色々な場所で取れる珍しい石、海の中の石などで作った手水鉢などにそのようなものがある。このような珍品は作者の好奇心をそそるもので無ければ、しいて使う必要が無い。

 

以上「山水築山庭造伝・前篇上」 完

 

一口アドバイス。

「終盤の項目には興味深い部分もあるが、胡散臭い部分も・・・」

(みずき りょう)


223:イタチ

イタチ・・・江戸時代の作庭家にとっては池の魚を狙う天敵?




「Buddha-ism」
 
みずきりょう著

    連載第101回(最終回)


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第六章 インドの「浄土系」と「密教系」グループ



NO20 さらばインド! (「あとがき」に変えて)②


その後の「インド仏教」②


 当然、日本に伝わったのは「大乗仏教」です。そして、それは「中国仏教」と「中国思想」の影響をうけた「仏教」でもあったわけです。つまり、「中国で独自に体系化された仏教」であったと言うことです。

 良い面、悪い面、両方が考えられますが、少なくとも「仏教」の分類と「部派仏教(小乗仏教)」の位置付けについては、偏見が強く、低く見すぎと言う傾向を持っています。この点を見逃すべきではありません。

 「大乗仏教」は「部派仏教」の批判が元となり、インドで産まれました。しかし、当初、少なくとも「般若経」や「ナーガルジュナ」「中観派」の考え方は、形骸化した「上座部」(部派仏教の主流で保守派)への批判と「お釈迦様」への復古、より深いレベルでの研究がメインテーマとなっています。

 しかし、中国仏教では「お釈迦様」はともかく、「初期仏教」(具体的には「阿含経」等)を幼稚な段階、「部派仏教(小乗仏教)」を、「大乗」を知らない浅はかな考え方と、切り捨てる傾向が強すぎます。しかも、その背景には明らかに研究不足があります。従って、インドでの初期「大乗仏教」による「部派仏教」批判と、中国の同「仏教」への批判との間には、大きな差があります。この点に、日本の仏教界で気が付いている人は意外に少ないようですが、仏教の全体像を把握するうえで、大きな障害となってきました。

 今でも日本では、事実や基本的な考え方を知らず、「日本仏教界」の通説に流され、誤解のまま「インド仏教」を見続けている人が多いのではないでしょうか。いや、「インドの仏教」そのものを知らないことの、重要性に気が付いていないと言った方が適切ではないでしょうか。

だからこそ、「お釈迦様」の考え方、「部派仏教」の考え方、「ナーガルジュナ」と「中観派」の考え方、「唯識派」の考え方、インドの「浄土系」の考え方、同「仏教タントリズム」を見直し、あえて素人の目で、できるだけ分かりやすく分析を試みてきました。

また、社会的背景を重視するため、インドの歴史・政治の流れとできるだけ対照し分析するよう心がけました。

当然、表層だけと批判を受ける部分も多く、専門家から見れば<浅はか・間違い>と言った点も多いでしょう。ただ、深みにはまりすぎると難解になりすぎ、一般の人から離れた存在に至ると言う難点もあります。それを防ぐには、素人の視点のほうが良いと善意に解釈していただき、この「Buddha-is・改訂版(2018)」が何かの参考になれば幸いです。

 

補注:Buddha-is・改訂版(2018)」は、10年ほど以前にまとめた「ヒューマンメッセージ・Buddha-ism」を一部加筆修正したものです。

 

 

 Buddha-ism・・・改訂版(2018) 完」

 みずき りょう



71:ヴィクラマシー寺院

「ヴィクラマシーラ寺院」・・・1193年の「ナーランダー寺院」陥落に続き、1203年に「ヴィクラマシーラ寺院」がイスラム勢力の手に落ち、ついにインドから仏教は姿を消した!



「Buddha-ism」
 
みずきりょう著

    連載第100回


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第六章 インドの「浄土系」と「密教系」グループ



 

NO20 さらばインド! (「あとがき」に変えて)①



その後の「インド仏教」①

筆者は「唯識派」以降の仏教には、やや批判的立場で項を進めてきました。以後の仏教は「観念論」的立場を崩すことなく、むしろその方向性をどんどんエスカレートさせて行ったからです。同時に「お釈迦様」自身も、一気に超人化していきます。リーダーが超人化すれば、その弟子である「菩薩」も超人化するのは言うまでもありません。

 さらには、同じ如来で、「お釈迦様」以上のスーパースターも多数出現します。その代表が「阿弥陀如来」と「大日如来」です。そのきらびやかさ、派手さには、「ちょっとやりすぎではないか」と思えるほどで、目を見張るものがあります。

 「宗教」「思想」「哲学」などは、いずれも人生や世界の本質を追求していきます。同時に、時代の影響を色濃く受け変化します。従って、派手になり変化することは決して悪いこととは言えません。どのような評価を与えるかも自由です。

 ただ、「唯識派」の「観念論」的考え方が、その堰を切る切掛けとなったことは事実です。見方によっては、「唯識派」無しにその後の「仏教」は存在し得なかったということも出来ます。彼等はそれだけ重要な役割を果たしたとも言えます。

 やがて、「インド仏教」は「浄土仏教」や、最後のスター「仏教タントリズム」を生み出します。しかし、それも「唯識派」の存在が無ければ、出現し定着できなかったのではないでしょうか?

 いずれにしても、インドの歴史でも触れたように、「インド仏教」は「唯識派」や「浄土系」「仏教タントリズム」の登場まで、発展を続けます。しかし、その後インド中南部では、「ヒンデゥー教」に押され、900年代には殆ど姿を消してしまいます。ただし、その前に「部派仏教」は拠点を移し、タイ、ミャンマー(ビルマ)を中心に、アジア各地に広く普及し、現在に至ります。

 一方、大乗仏教はインド北部でさらに生き続け、新しい考え方を生み出します。しかし、最後に登場した「仏教タントリズム」も含め、西から押し寄せた「イスラム教」に押され、1000年頃から急速に衰退し、1200年頃には姿を消してしまいます。

 ただし、「大乗仏教」は、すでに23世紀頃からシルクロードを渡り東西に伝わります。西方ではアフガニスタンなどがその代表ですが、こちらはインドより早く「イスラム教」の影響で姿を消します。しかし、東方では「チベット」「中国」「朝鮮」「日本」で定着・発展し現在に至ります。


114:仏教エリア

インドで仏教が滅びた後の伝播図・・・中国・日本には「大乗仏教」が伝わり現在に至る。だが、原点となる「インド仏教」を誤解しているケースも目立つ。



「Buddha-ism」
 
みずきりょう著

    連載第99回


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第六章 インドの「浄土系」と「密教系」グループ



NO
19 謎多き「インド密教」の世界⑨


 

インドの「仏教タントリズム(密教)」&中国・日本の密教

 最後に<インドの「仏教タントリズム」とは何か><中国・日本の「密教」とどこが違うか>この2点に関して、(筆者の私見ですが)簡単に検証・整理しておきます。

 まず、<インドの「仏教タントリズム」とは何か>ですが、かなり強引ではありますが、時の流行に合わせ、呪術性・快楽性(特に性的エクスタシー)を取り込み、その実践法として、「火を使った祈祷」「マントラor ダーラニー」を繰り返し唱える・・・と言った行動を行う。そのようなグループの事で、仏教徒の間で急発展。しかし、ヒンドゥー教等の同系グループとそれほど大きな差はなかった。そう推察されます。

 確かに、「大日経」「金剛頂経」等の経典が作成されましたが、「仏教タントリズム」独自の体系・伝承形式・修行形態の確立>には至らなかった。そう考えるべきではないでしょうか。

 一方、チベットを経由し、中国・日本に定着した「密教」は、「大日経」「金剛頂経」(「理趣経」を含む)の記述内容をベースに、独自の思考体系をまとめ上げた。同時に、修業・祈祷等に関する厳密な様式(例えば、祈祷等に使う法具を決める・その使い方を決める、等)も創り上げた。さらに、その伝承形態を厳しく規定(「密教」トップ〜同トップが選んだ高弟へのみの継承)した。その一方で、性的エクスタシーと言う部分は、より形而上的な解釈を優先し、(少なくとも「密教」本流に置いては)実践性が排除された。

 以上に加え、ヒンドゥー教・イスラム教などが殆ど入り込んでおらず、仏教独自の「タントリズム」体系の確立がよりスムースに進んだ。結果、素朴なインドの「仏教タントリズム」とはかなり様相の異なったものとなった。こんなところでしょうか・・・

 また周知のとおり、日本では「空海」が中国で「恵果(けいか・746804年・中国真言宗の第7祖・空海の師)」から正当な「真言密教」を伝授され、「密教」を大発展させます。ある意味、<「密教」は日本で完成された>と言えるかも知れません。それだけに、膨大かつ極めて奥深いもと言えます。だからこそ、この「Buddha-ism」では、あえて足をこれ以上踏み込むことを控えさせていただきます。


知って得する「仏教用語」 今回は、「大日経」「金剛頂経」の漢訳本について。

「シュバーカラシンハ(漢名・善無畏)」・・・635735年(疑問も)。インド僧で後に中国・長安で暮らし、724年に中国学僧の協力を得て、「大日経」第一号の漢訳本を作った。その後、90年程遅れた812年にチベット語訳「大日経」が出現。従って、漢訳「大日経」の方がチベット訳より古いと言う事に成る。また、同経典のサンスクリット原典は見つかっていない。

 

「アモーガヴァジュラ(漢名・不空)」・・・705774年。インドの王族の血を引くと言われる僧。「金剛頂経」を763771年にかけて翻訳し、漢訳「金剛頂経」を作った。現在でも、単に「金剛頂経」と記した場合は、「不空」訳の三巻本を指す。


110:金剛界曼荼羅・チベット

チベットの「金剛界曼荼羅」・・・日本の「金剛界曼荼羅」より描かれている範囲が広い。



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