みずきりょう

<ライター「みずきりょう」のブログ> インド哲学・仏教関連の著作物、エクステリア(住まいの屋外空間)・ガーデン関係の著作物を随時連載していきます。 ご愛読いただければ幸いです。

カテゴリ: みずきりょう著「仏教タントリズム」






「仏教タントリズム・資料編」



        みずきりょう著


         連載第482回





 

<第十七章> 
日本の<「仏教とタントリズム」(密教)>





78:「空海」の著作物




 

<弁顕密二教論>⑯




<筆者の「弁顕密二教論」に対するまとめ>

 以上、「空海」著「弁顕密二教論」を、現代語全訳に近い形で要約しました。

 結果、筆者は以下のような印象を強く受けるとともに、「空海」の意図したことについて、素人判断ではありますが、以下の結論に至りました。

 まず全体に対する印象ですが、(当たり前とは言え)「空海」の博学ぶりに改めて圧倒されたと言う次第。彼は僧侶であり仏教学者ではありません。平安時代初期の仏教はまだまだ知識優先的な考え方が強かったとは言え、<「仏教タントリズム」(密教)>だけではなく、インドの初期仏教・中観派・唯識派、それらを含む大乗仏教全般にわたり深い知識を持ち、それらの全てと真摯に向き合っているからです。

 勿論、現代の仏教学からすると?マークの付く部分も一部あります。ただしそれは、「唐」時代の仏教及び「南都六宗」の知識をベースとせざるを得ない、当時の事情によるもので、学問的な意味でも仏教全体に精通していたことは間違いありません。

 同じことが20歳代中盤に著された「三教指帰(さんごうしいき)」にも言えることで、「空海」は広く正しく学ぶことを極めて大切にしていたことが分かります。当たり前。そう言われる方も多いかもしれません。ただし、日本の(特に鎌倉仏教以降は)仏教は、この学ぶと言う事をおろそかにし続けて来た。少なくとも筆者はそう考えています。

 極端な場合は<知識など何の意味もない。慈悲心、それが全てだ>などと言った言葉さえよく耳にします。

 しかし本来の仏教は高度な学問的側面を持っています。その考え方が自分の考え方と合致する・合致しないは別として、少なくとも「空海」は多くの仏教論に精通することが、自分の役割だと考えていたことは、「弁顕密二教論」を見ても間違いの無い事実です。

 同時に「空海」は豊富な知識に対し、冷静かつ客観的な解釈をすることがいかに大切かを明確に語りかけています。だからこそ、多く書物(仏教論、等)の重要部分を具体的に示し、逐一解説を加えています。単に自分の意見を述べるのではなく、極めて実証的に自説の正当性を指し示していると言う事。この点をまず確認しておくべきでしょう。

 続いて「弁顕密二教論」から得られる「空海」論=<「仏教タントリズム」(密教)>論ですが、これまた非常に分かりやすく理路整然としている点を、見逃すべきではありません。


観世音寺本堂
「観世音寺」本堂(太宰府市):遣唐使帰国後「空海」はここに足止めされたが、同地で「弁顕密二教論」著された可能性が強い。
画像:Wikipediaより








「仏教タントリズム・資料編」



        みずきりょう著


         連載第481回





 

<第十七章> 
日本の<「仏教とタントリズム」(密教)>





78:「空海」の著作物




 

<弁顕密二教論>⑮



 

第二章・本論⑬



 

「守護国界主陀羅尼経(しゅごこっかいしゅだらにきょう)」

 「守護国界主陀羅尼経」の巻第九には「陀羅尼と言うものは毘盧遮那仏が住む世界では帝釈天など多くの尊者に広く知られる教えだ。だから私(釈迦如来)も菩提樹のもとでお前達に陀羅尼を説く」と記されています。

 

「大智度論」

 「大智度論」の巻第九には「仏は二種の姿を持つ。一つは法生身で、二つ目は父母生身だ。そして、法生身は仏の究極とも言うべき本当の姿、父母生身はそこから生まれたお釈迦様の姿だ」と記されている。

 さらに「法生身の仏は全ての世界を覆いつくす真の仏の姿で、姿かたちも完璧と言えるほど整っており、全てのもの(無量)を照らし出す光を放ち、誰にも聞こえる声で法を説く。従って無料無辺の仏と言うことが出来る」と続く。

 また「法生身の仏は、あらゆる場所にあらゆる姿で現れ、全てのものを救済する。勿論、その救済は一瞬たりとも止まることがない。一方、お釈迦様のような父母生身の仏は、その場やその人に応じた救済を行うため、人徳者が人を救うのとよく似ている」とも記されている。

 「大智度論」には次のような記述もある。「法身の仏は絶えることなく光明を放ち説法を行う。だが、(お釈迦様のような)一般の仏は、それが出来ない。例えば赤子には太陽が昇ってもそれが見えないのと同じだ。だから、部分的かつ局所的な救済ではなく、全てを救う事が出来るのは、法身仏だけなのだ」と。

 この他「密迹金剛経」には「仏には三つの姿があり、これを三密と言う」とある。

 さらに「その三密とは、身密・語密・意密の事で、一般的な尊者ではその本当の意味を理解することは出来ない」と。

 以上の事を私「空海」が分かりやすく言い直すと、これまで取り上げた経論は、顕教と密教の相違を示したものだと言う事です。要するに法身と言える究極の教えは密教だけのもので、顕教ではその教えを説くことは出来ません。この点を間違わないように。

 

<第四(最終)節・顕教と密教の違い>

 質問。法身が示す悟りを秘密教(密教)、その他の悟りを示す教えを顕教と言います。となれば、お釈迦様が説かれた教えの中に密教の教えのようなものが含まれているのはなぜでしょうか。また、陀羅尼も含まれているのはなぜでしょうか。

 答え。顕教・密教などと言う表現そのものが相対的なものでしかなく多種多様。従って両者は混在しており、その中で浅い教えは顕教、深い教えは密教と言う事になります。同じ事が仏教以外の教えにも言えます。だから仏教以外の教えの中にも秘密蔵などと言った単語が含まれていることもあります。

 また同じ如来の教えに関しても、様々なレベルの教えが混在していることもあり、当然その中にも浅い深いがあります。例えば、小乗仏教の教えは浅いと言うが、他宗教の教えと比較すれが深い教えと言う事になります。

 大乗仏教の教えも同様で、顕教の教えも小乗仏教のそれと比べると深いと言えるし、密教と比較すると浅いと言う事になります。だから、同じ顕教の教えでも一乗と呼ばれるものは三乗と呼ばれるものより深く、その場合一乗の教えを秘密教と呼ぶこともあります。

 陀羅尼と呼ばれる真言は、その短い音の中に世界を包み込んでいます。顕教の場合は多くの一般的な言葉を使いその教えを伝えます。だからその中の言葉で深い意味を持つものを秘密教と表現することもありますが、本来の陀羅尼とは全くの別物。

 だから、各者各様の秘密教があっても、顕教でいう秘密教と密教のそれとはまったく別だと言う事になります。

 つまり、秘密と言う言葉自体にも浅い・深いがあると言う事。浅い秘密は衆生の秘密。深い秘密は如来の秘密。このようにも言え、究極とも言える如来の秘密は法身大日如来だけの世界です。それは、一般人や顕教に登場する如来とは似て非なるものなのです。

 以上のように単に秘密と言っても様々。ただし本当の秘密・秘密教と言えるものは大日如来の教えだけで、陀羅尼もまたしかり。           

                               「弁顕密二教論・完」


蓮華院多宝塔の大日如来
「金剛界大日如来」:蓮華院多宝塔内の「五智如来」より
画像:Wikipediaより








「仏教タントリズム・資料編」



        みずきりょう著


         連載第480回





 

<第十七章> 
日本の<「仏教とタントリズム」(密教)>





78:「空海」の著作物




 

<弁顕密二教論>⑭



 

第二章・本論⑫



 

<第三節・引用例に対する解答>(要約)


「金剛頂経一切瑜祇経」

 「金剛頂経一切瑜祇経」にこんなことが書かれています。(注:不読断)

 筆者の要約(「空海」の注釈部を含む)

 全能者(毘盧遮那仏)と他の全ての如来世界。その知恵を五智と言います。その五智とは、大円鏡智・平等性智・妙観察智・成所作智・法界体性智と呼ばれるもので、要するに完璧な智慧を表しています。それが金剛界曼荼羅の中心部です。

 さらに「金剛界曼荼羅」には、如来と共にある眷属・十六大菩薩・四摂行天女使・曼陀羅各所に配された八供養天女使などが描かれています。これらの三十七尊者は救済心を持ち、金剛月輪を創りその中に住んでいます。そして金剛月輪が放つ光は世界中を覆い尽くしています。

 また曼陀羅に住んでいる尊者は様々な印を結んでいます。その印は煩悩を寄せ付けないなどの効力があり、迷いの世界を断ち切るなどの威力を発揮します。また曼陀羅に表れる三密とは智密・理密・通密と呼ばれるもので、それは究極の悟りへと通じるものです。

 筆者注:不読断部でありかなりの部分を割愛していますが、要するに「金剛界曼荼羅」についての直接的記述部分で、言葉を超え自らを曼陀羅と一体化しその世界を体現せよ。そのような事が述べられている部分。そう解釈すべきではないでしょうか。

 

「大日経」

 「大日経」にはこのように書かれています。(不読断に近い部分)

 全能者(毘盧遮那仏)は広大かつ完璧な(曼陀羅に描かれているような)世界に住まれている。そして、全能者のことを金剛手秘密主などとも呼びます。

 全能者は様々な如来・尊持金剛衆・普賢菩薩など多くの菩薩・その他の尊者などと共に全ての人々や世界を守り続けています。また、その時々の状況に応じ、このような場合は普賢菩薩をリーダーとして救済処置を行い、またこのような場合は執金剛をリーダーとして歩むべき道を示します。このように全ての世界を守り続けています。

 全能者の究極の教えは言葉などで言い表すことは出来ません。にもかかわらず、この世界を正しく導き続けているのです。適材適所にそれに見合う尊者を配し、光を当て続けているのです。

 ある時、全能者は執金剛秘密主に言いました。「私が究極とも言える境地に入った場合、自然と制約などと言うものがゼロの世界(三三昧耶)の中に入る。その世界を表現することは一般の言葉では不可能で、真言と呼ばれるものだけだ」と。

 「だからこそ、私の本当の姿を感じ取るには真言を唱え続けるなど、密教の世界に立ち入る以外に方法はない」とも。

(注:このコーナーは「大日経」住心品の最初の部分=「大日経」の冒頭部が対象と推定されます。そして全能者(毘盧遮那仏)の本当の姿は見えない。ただし、真言を唱える・特有の祈祷などを行うなど、密教だけはその世界知ることが出来る。その一方で、報身などと呼ばれる仮の姿で、気が付かなくても全能者及びそれを取り巻く尊者は、全ての世界を守り続けている。「空海」はそう告げていると推定されます)


スヴァーハ
「ヒンドゥー教」の神「アグニ」と「スヴァーハー」・・・「仏教タントリズム」の世界では、真言(マントラ)の一種「ダーラニー(陀羅尼)」は「スヴァーハー」と言う単語で終わることが多い。日本語では「幸あれ」「成就せよ」などと訳す。
画像:Wikipediaより









「仏教タントリズム・資料編」



        みずきりょう著


         連載第479回





 

<第十七章> 
日本の<「仏教とタントリズム」(密教)>





78:「空海」の著作物




 

<弁顕密二教論>⑬



 

第二章・本論⑪



「金剛頂瑜祇経」 (注:この部分も不読断)

 筆者所見:この部分は「金剛頂経」が示す「金剛界曼荼羅」中心部の描き方に類します。従って、やはり曼陀羅界との同化する事が悟りへと繋がる(逆に言えば、言葉や理論では本当の悟りを得ることは出来ない?)。そのような趣旨だと想定されます。

 

「分別聖位経」 (注:この部分も不読断)

 筆者所見:この部分は悟りの境地とは何かを示しています。その境地とは尊者自身が迷いのない心(悟り)を楽しんでいる。そしてその究極の楽しみともいえる世界こそが密教が目指す世界。こう示していると想定されます。

 

「分別聖位経」 (注:この部分も不読断。ただしある程度長文で、書かれている意味も比較的明快であるため、あえて要約しておきます)

 「真言」と呼ばれる、言葉でありながら言葉で言い表すことが出来ない経部があります。それは悟りに直接通じる文言であるからです。

 (これまでも述べて来たように)如来は様々な尊者に姿を変え人々を救済してきました。それが報身などと言った言葉で表される如来の仮の姿です。だから、菩薩をはじめとする膨大な数の尊者・教えが存在します。

 ただしそれは本当の毘盧遮那仏の教えではありません。云々。

 以上に関し私「空海」が説明しておきます。仏(如来)は状況に応じ様々な形に姿を変える。いわゆる三身説法と呼ばれるように。だからその教えには浅い深いがあります。教えの選び方により、悟りに至る早い遅いがあります。「楞伽経」も三身について触れています。しかし顕教の中には究極とも言える法身の教えは示されていません。それが示されているのは密教だけです。だからこそ両者の差は明確であり、この点を間違ってはなりません。


出流山満願寺:護摩
護摩(「ホーマー」の音訳)を使った儀式:満願寺(真言宗・流山市)



 






「仏教タントリズム・資料編」



        みずきりょう著


         連載第478回





 

<第十七章> 
日本の<「仏教とタントリズム」(密教)>





78:「空海」の著作物




 

<弁顕密二教論>⑫



 

第二章・本論⑩



 「入楞伽経」

 「楞伽経(りょうがきょう)」の巻第九には「仏陀が説く教えはは正しい。だが入滅後は誰がその教えを説き続けてくれるのか。心配ご無用。新たな人物がその教えを引き継ぎ説き続けるからだ。インドのナーガールジュナ(龍樹)もそうだ」と書かれています。

 この点について私「空海」が説明します。ここで言う正しい教えとは真言密教の教えの事です。この点については、如来自身が明言しています。そう「ナーガールジュナ」がその教えを引き継ぐと。その言葉を疑ってはなりません。

 

「入楞伽経」

 また「楞伽経」巻第二には、「智慧者である菩薩よ。究極の智慧とは何かを説く法身仏。そこから派生した報身の教えに対しては、正しく理解することが出来ず、勝手な考え方を述べる者も多い。注意せよ」と書かれています。

 究極の教え(法身仏の教え)は絶対的と言えるものです。一方、(報身仏同様)応化仏の活動・教えも、六波羅蜜・五蘊・十二処など多種多様。従って両者には大きな違いがあります。

 また究極の教え(法身仏の教え)は、修行し辿り着けるようなものではありません。だから、小乗仏教の修行者や仏教以外の信者には理解することが出来ません。また「楞伽経」巻第八には、「応化仏の説教は真実を語るものではない」とも書かれています。

 以上について私「空海」が分かりやすく説明すると、「楞伽経」は仏の教えと言っても、法身・報身・応化身と言う三種(三身)があり、法身仏の教えだけが本当の正しい教えだと言う事。この点を間違ってはなりません。

 

「五秘密経」(「不空」著「金剛頂経瑜伽金剛薩埵五秘密修行念誦儀軌」)

 「五秘密経」には以下のように説かれています。「顕教の修行を行うものは悟りに至るまで、永遠とも言える長い時間を必要とする。しかも長い修行中にも多くの迷いが生じる。だから、目的を達成(悟りを開く)する事が難しい」と。

 注:ここからは「密教」で<不読段>と呼ばれている部分で、言葉として捉える・意訳等が禁じられている。従ってあくまでも筆者の独断で概略(推測)のみ表示。

 <如来など智者によると、曼陀羅と同化することで即座に悟りが得られる。云々>

 以上を私「空海」が分かりやすく説明。顕教でいう<究極の教えは言葉で説明不可能>と表現されている部分=「密教」の教えです。またそれこそが「大日如来」の教えだと言う次第。

 「瓔珞経(ようらくきょう)」によると(注:不確定要素あり)仏身(仏の教え)を複数に分けていますが、「密教」の教えは全てを内包した、しいて言うなら「理智法身」とでも表現すべきものです。


五鈷杵
五鈷杵」:成相寺(京都府宮津市)所蔵
画像:Wikipediaより



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