Buddha-ism
第2改訂版
「仏教」について語ってみたいと思います。閉塞状況の現代社会に最も必要な思考体系だと思うからです。本書は、特定の宗教を広めようとする主旨によるものではありません。ただ、仏教のすばらしさが、あまりにも誤解を持って伝えられ、本当 の魅力とは程遠いイメージが定着してしまっているからです。
これほど「mottainai」ことはありません。出来るだけ客観性に富んだ視点で、分かりやすく「仏教の考方」を伝えたいと思います。ぜひ目を通して見て下さい。
みずき りょう
第一章 「釈迦」が伝えようとしたもの
NO―4 「パティッチャ・サムッパーダ」の追求と民衆の救済⑦
「縁起」と「十二縁起」③
ただしこのような分類が明確になったのは、おそらくお釈迦様が没し100〜200年経過したBC300〜200年、つまり「部派仏教」(後述)時代以降の事。また、「十二縁起」は悟り云々というより<人が生きていくための戒め>と言った単純な捉え方をしていたと判断したほうが良いでしょう。
さらに補足するなら、「縁起」の解釈をめぐり、仏教を「虚無主義」や「悲観主義」に結びつける人もいますが、少なくとも筆者は、それは決定的な間違いであると考えています。理由はこの書の全編を通じて、読者と一緒に考えて行くことにしましょう。
ただ筆者は、お釈迦様が悟った「縁起」と「十二縁起」は少し違うように感じます。本来の「縁起」は「十二縁起」のように煩雑なものではなく、もっと直感的なものであったと思うからです。それは、「常住するものなど無い」という真理を、根本的に受け入れることができた、と言う心境に近いものだと思います。
この段階で書くべきか否かは難しい問題ですが、初期経典類には「空(くう)」と言う発想が極めて微小しか提示されていないと言うことを確認しておきます。「空」は後の「大乗仏教」の根本理念にもなるわけですが、それが、当時の人々にはあまり意識されず、「縁起」の本質をとらえるのに苦労した、大きな要因となっていたとも考えています。
最後に、「ニカーヤ」のなかで「縁起」そのものについて記されている、数少ない一項を引用しておきます。
ブッダ・ゴータマは「縁起」について次のように語った。
比丘たちよ「縁起」とはどのようなことであろうか。
比丘たちよ、たとえば「生があるから老死がある」と言う。
このことは、如来がこの世に出ようと出まいと、定まっていることである。
如来はそれを証(さとり)知った。
証(さとり)を知って、宣教し、詳説し、開顕し、分別し、解明して、そして「汝らも見よ」というのである。
(中略)
比丘たちよ、ここにおける如性(にょしょう)、不離如性(ふりにょしょう)、不異如性(ふいにょしょう)、そして相異性なるもの、比丘たちよ、これを「縁起」と言う。(雑阿含経の一部、角川書店発刊「仏教の思想」より引用)
さて、あなたはこの文章をどのように解釈されるか・・・。
続いて、初期経典類に書かれている、別の重要事項から「縁起」を含めた仏教の考え方を、さらに追って行くことにしましょう。
30:「仏足石」・・・初期の「仏教」では(仏像のように)お釈迦様の姿を直接描くことを禁じていた。そこで、お釈迦様を連想できる足形などを信仰の対象とした。
画像:Wikipediaより